最後は「天守に火を放ち、焼死した」
信長は大和の支配を、久秀の仇敵である筒井順慶にゆだねたが、久秀はそれに耐えられなかったようだ。前出のように手塩にかけて築いた多聞山城を、みずから解体するように命じられたことも苦痛だったのだろう。
足利義昭や毛利輝元、上杉謙信や石山本願寺などの反信長勢力と呼応すれば、勝てると思ったのだろうか。しかし、このとき久秀は数え70歳。状況を読む勘所がすでに鈍っていたのかもしれない。
信長も放置しては示しがつかないと考えたのだろう。嫡男の信忠に、久秀の宿敵である筒井勢を中心とする10万の軍勢を率いて信貴山城を包囲させた。『信長公記』には〈松永勢は防戦したが、弓折れ矢尽きて、松永久秀は天守に火を放ち、焼死した〉と書かれている。そこには「平蜘蛛」についての言及はなく、「爆死」とも書かれていない。


