信長が嫉妬するほど豪華な城

話は前後するが、永禄3年(1560)には、三好家の戦略のもと大和(奈良県)を制圧。信貴山城(奈良県生駒郡平群町)を本拠とし、永禄5年(1562)には、奈良の北方の佐保丘陵に多聞山城(奈良市)を築いた。その城内には、『多聞院日記』などによれば「四階ヤクラ」がそびえたという。

「多聞城跡」と記された石碑
「多聞城跡」と記された石碑(写真=ブレイズマン/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons

織田信長が安土城を築く13年前に、4階建ての天守が建っていた可能性があるのだ。また、城内を見学した宣教師ルイス・デ・アルメイダの報告では、山を切り崩した平地に多くの塔や堡塁が築かれ、家臣団が集住し、家臣の屋敷は豪華で、ヨーロッパ風の上階や蔵をともなっていたという。また、城の建造物は壁が白く黒い瓦が葺かれ、廊下には日本と中国の歴史物語が描かれ、柱は塗金され、彫刻が施されていたという。

安土城天主も『信長公記』などの記述によると、内部には「日本と中国の歴史物語」が描かれ、柱は塗金され、彫刻が施されていた。じつは、信長は多聞山城の櫓を安土城に移築するように命じ、久秀が起用した金属加工の太阿弥や、室町幕府御用絵師の狩野氏を、安土城の装飾に動員した。ということは、信長は安土築城にあたり、多聞山城をまねた可能性が多分にある。

下剋上による出世という点では、少なくとも信長が討たれるまでの秀吉も敵わない。好条件が重なれば、天下一統を競える人物だったのではないだろうか。

将軍殺しは「冤罪」の可能性

では、先ほど記した悪辣なイメージに関してはどうなのか。まず、永禄8年(1565)5月18日に将軍義輝が討たれた件だが、これを先導した三好義継の軍勢に加わっていたのは嫡男の久通で、久秀は将軍殺しに加わっていない。

永禄10年(1567)の東大寺大仏殿の焼失だが、久秀はある時期から三好家中で孤立。いわゆる三好三人衆との抗争が激化し、同年10月10日、久秀は東大寺の境内に陣を張る三人衆を夜討ちした際、火が広がって大仏殿に延焼したという。しかも、火をつけたのは三人衆だとする史料のほうが多いのだ。

東大寺・大仏殿
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平蜘蛛の伝説同様、異例の出世を遂げる人物には、ことほどさように噂や風聞が付きまとうものらしい。

さて、永禄11年(1568)9月、足利義昭を擁立して信長が上京して以降、信長に協力してきたが、義昭との関係が悪化して信長とも対立。信長と義昭が対立すると、今度は義昭の側について信長に攻められ、天正元年(1573)12月に降伏していた。「豊臣兄弟!」で描かれる同5年(1577)の謀反は、それ以来のものだった。