「戦国最悪のろくでもない男」は本当か

久秀の首も平蜘蛛も、火薬で砕け散ったと記されているのは、元和年間(1615~24)に成立した『老人雑話』で、この話が茶の湯に命をかけた逸話として、享和4年(1804)に刊行された『茶窓聞話』に再掲された。

また、その後に流行した浮世絵では、平蜘蛛を打ち割って切腹する久秀の姿が描かれるようになった。こうした「伝説」の延長として、久秀が自分自身を平蜘蛛とともに火薬で吹き飛ばしたという俗説が生まれたが、それが広まったのは、どうやら第二次大戦後のことのようだ。

松永久秀のイメージは、平蜘蛛を除けば、「戦国最悪のろくでもない人物」というものだろう。たとえば、『信長公記』の作者である太田牛一の『太かうさまくんきのうち(太閤様軍記の内)』には、13代将軍足利義輝を討ち、主君の三好長慶をそそのかして、その弟の安宅冬康を殺させ、その息子の義興を毒殺。信長の家臣になるも背き、東大寺大仏殿を焼いた報いによって焼死した――。おおむねそう書かれている。

だが、近年の研究であきらかになった久秀像は、それにくらべるとかなり真っ当で、運を味方につけることができたなら、それこそ秀吉のように天下だってねらえたのではないか、と思わされる。

百姓からの大出世

久秀の出自は、摂津(大阪府北中部と兵庫県南東部)の五百住(大阪府高槻市)の百姓である可能性が高いという。そして、秀吉が信長に仕えて頭角を現したように、三好長慶に仕えて頭角を現す。長慶といえば、室町幕府ナンバー2の細川晴元に仕えながら、京都を軍事的に占領し、「天下」と呼ばれた畿内最大の実力者になった人物として知られる。

三好長慶像(部分)大徳寺・聚光院蔵
三好長慶像(部分)大徳寺・聚光院蔵(写真=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons

軍事のほか実務の才にも長けていた久秀は、長慶のもと三好家のすべてを取り仕切る筆頭の地位を得るのだ。長慶は足利将軍家に頼らずに京都を支配したが、その下で、たとえば近江(滋賀県)の六角氏に、将軍義輝を見限って三好につくように誘いかけるなど、大名間の外交を担ったのは久秀だった。

こうした活躍によって、異例の出世を遂げる。永禄4年(1561)には、三好長慶の嫡男の義長(義興)とともに従四位下に任ぜられたが、この位階は主君の長慶や将軍義輝と同格だった。さらには、将軍義輝から桐紋を拝領した。桐紋といえば、信長や秀吉が天下人になった証として拝領したことで知られるが、三好家の家臣にすぎない久秀が、それを授けられたのである。

天理大学教授の天野忠幸氏はこう記している。「久秀は朝廷と幕府の双方から、主君と同等の待遇を受けたことが、極めて異例なのである。(中略)特筆すべきは、将軍を頂点とする家格秩序が存在し、全国の戦国大名がそれに服している中で、出自がほとんどわからない身分から、自分一代で主家と同格、さらには将軍一門にも准ずる地位を、朝廷からも幕府からも公認されたことなのだ」(『松永久秀と下剋上』平凡社)。