「紙しか認めない」は人権侵害
デジタル教科書をはじめとするデジタルコンテンツの普及は、そういう人にとって「本来の能力」を発揮する余地を広げてくれるものだ。
PISAは日本では「読解」「リテラシー」の概念を拡張してきた存在として見られている。
たとえば読解リテラシー(Reading Literacy)のテストは、日本の国語のテストに出てくるような小説や論説文以外にも、手紙、説明書や役所で出てくるような書類、ウェブ上のテキストなどが登場し、さらには複数テキストの比較・併用等々も課したことで、日本の国語科教員に困惑と衝撃を与えてきた。
だが北欧諸国からすると、そのPISAでさえ従来型のReadingやLiteracyにとらわれており、生徒の多様性に合わせてテストを調整できていなかった、ということになる。この騒動の後、PISAはアクセシビリティ対応の強化を示している。
EUでは「欧州アクセシビリティ法」に基づき、2025年6月より、あらたに市場に出る電子書籍に対してアクセシビリティ対応(読み上げ対応やナビゲーション機能など)が義務付けられる方向にある。
「アクセシブルな読書」の提供は、学習権を含む基本的人権の一部だからだ。
要するに、北欧の動向は「紙か、デジタルか」の二者択一で「紙に回帰しました」という話ではない。実際にはどちらも推し進め、学習の目的や生徒の特性に合わせて使い分けられる環境づくりに取り組んでいると理解すべきだろう。
「紙がいい」は本好きエリートの独善
「すべての人にとって紙の教科書がいい」とは限らない。紙には紙の良さがあり、デジタルにはデジタルの良さがある。
日本の報道やソーシャルメディア上の議論では「読み書きがむずかしいひとがけっこうな割合でいる」という前提が抜けている。アクセシビリティという観点がすっぽり抜けた状態で、デジタル教科書批判&紙の教科書の礼賛が横行していると考えられる。
紙のテキスト(本、教科書)至上主義者や読書強者たちは、自分たちが文字を苦もなく処理できる認知特性や、文字文化があたりまえの環境で育ったことに無自覚だ。
あるいは、自覚があっても、そこからこぼれおちる人に目を向けるより、感傷的に紙の本のよさや、読書によって救われた自分の体験を語っておしまいにする。
そうしているかぎり、紙の本を苦も無く読みこなしてきたエリートの優位性はゆるがないからだ。
デジタル教科書のようなアクセシブルなテキストを「本来の読書ではない」「思考力が育たない」「気が散るだけ」等々と切り捨てることは、「本好き」よりもはるかに多い「読み書き困難」のひとたちを学習から排除することになる。
それはスウェーデン人の感覚からすれば、人々の学ぶ権利、知る権利を阻害する人権侵害、人権無視以外の何者でもない。
デジタル教科書にも欠点はあるだろう。だが、デジタル教科書によりアクセシビリティ対応が当たり前になれば、これまで「学習障害者」として扱われてきた人5~8%の人にとっては、持っている能力を発揮しやすい環境が生まれる。それは日本人の学力の底上げになるし、ひいては日本人の潜在的な能力の向上にもつながる。
逆に、紙の教科書にこだわり過ぎることは、5~8%の人から学習機会を奪うという意味で、深刻な人権侵害と見なされ得るということを指摘しておきたい。
また、日本では今のところ「紙の教科書」「デジタル教科書」「併用」の選択(採択)は各市町村の教育委員会(自治体)単位で行う見込みだ。これでは紙での学習がむずかしい人たちにも引きつづき紙を強制することになる可能性が高く、アクセシビリティ対応としてはまったく意味がない。

