「前門の虎、後門の狼」状態の信長軍
堀切はもちろんこれだけではなく、尾根を北へ進むと頻繁に出くわす。自然の勾配が小さい分、人工的な加工で敵の進軍を困難にする。つまり、北から攻めても南から攻めてもなかなかの犠牲を強いられることは明白。
山本山城は小谷城同様に侮れない堅城だ。実際、姉川の戦い後に織田軍に攻められるも見事に撃退している。この城が浅井方にある限り、小谷城を攻め落とすことも難しいのだが……。
主家滅亡を導いた男の「その後」
チャンスは意外なところから信長のもとへと転がり込んでくる。1573(天正元)年8月8日、山本山城の城主・阿閉貞征が浅井家を捨て、織田方へと寝返ったのだ。これで後顧の憂いはなくなった。
こういう時の信長の決断は大胆かつ迅速だ。いったんは引き上げた3万の軍勢を再び率いて虎御前山城へ。まずは朝倉軍の籠る大嶽城を攻め落とし、さらに勢いに乗って越前へと電撃的に侵攻。朝倉家をあっという間に滅亡させてしまう。そして引き返した織田軍は小谷城を攻め落とし、浅井家も滅ぼした。阿閉貞征の寝返りから1カ月弱の「電撃作戦」だった。
その際に、敗軍の将・浅井長政は自刃に追い込まれ、長政に嫁していた信長の妹・お市と3人の娘たちが小谷城から逃げ落ちたのは、ご存じのとおりだ。
阿閉貞征は、秀吉に従い各地を転戦するなど、その後は織田家臣として武功を上げている。
しかし、1582(天正10)年6月。本能寺の変の直後、阿閉貞征は明智光秀に与してしまう。秀吉との山崎の戦いでは明智方の先鋒を務めるも敗戦、捕縛。磔刑に処せられた。小谷城の戦いでは、時勢を読み見事に勝ち馬に乗った。だが、本能寺の変の際はそれを見誤り、生涯を終えることになってしまった。主家を裏切った男、10年越しの因果応報だったのかもしれない。





