小谷城攻め直前、両軍の布陣

信長はなぜ、小谷城の戦いに「勝機あり!」と決断できたのか。小谷城一帯の各城の位置関係が、その謎を解く手掛かりとなる。

小谷城跡絵図
小谷城跡絵図(画像=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons

小谷城には浅井長政、谷を挟んで北西側の尾根上にある大嶽城おおづくじょう(図表1③滋賀県長浜市小谷上山田町)には朝倉の援軍が陣取る。それらと対峙する位置に虎御前山城があり、ここから南方は織田家が押さえており、虎御前山城までは軍用道も整備され補給体制も整えられていたという。

注目すべきは虎御前山城の西側、琵琶湖畔にある山本山城(図表1④滋賀県長浜市高月町西阿閉)だ。城主は阿閉あつじ貞征さだゆき。姉川の戦いにも参陣している浅井家の重臣の一人だ。

うかつに小谷城へと兵を進めれば、貞征に背後を突かれかねない。あるいは南方からの軍用路を塞がれてしまえば退路を絶たれ、「金ヶ崎の退き口」の二の舞となる可能性もあっただろう。寸前まで長政を追い詰めていながら、信長が最後の一歩を踏み出せなかったのは、この城の存在が非常に大きかったのではないか。

小谷城から西の眺望。手前の丘が虎御前山城、奥の山が山本山城。左奥は琵琶湖に浮かぶ竹生島
撮影=今泉慎一(風来堂)
小谷城から西の眺望。手前の丘が虎御前山城、奥の山が山本山城。左奥は琵琶湖に浮かぶ竹生島

とはいえ、正面の小谷城、大嶽城に籠る浅井本隊、朝倉援軍に比べれば、山本山城の兵数ははるかに少なかったはず。電撃作戦は織田軍の得意な戦術のひとつ。一気に山本山城を攻め落とし、後顧の憂いを絶つこともできたのでは? とも思えてしまう。

ところが、山本山城は小谷城に勝るとも劣らぬ「天然の要害」なのだ。

西麓から見た山本山城
撮影=今泉慎一(風来堂)
西麓から見た山本山城