“焼失”したのは根本中堂と大講堂のみだった
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」。第15回(4月19日放送)は朝倉・浅井連合軍との一大決戦である姉川大合戦が描かれた。そして、第16回(4月26日放送)はついに来た、タイトルは「覚悟の比叡山」。藤吉郎(池松壮亮)と小一郎(仲野太賀)は浅井方の宮部継潤(ドンペイ)の調略を行っている一方で、信長(小栗旬)は、織田に従わないなら寺を焼き払えと光秀(要潤)に命じたのである。
いよいよやってきた、信長の見せ場比叡山の焼き討ち。時に1571(元亀2)年9月12日のことである。
さて、この比叡山焼き討ちのステレオタイプなイメージはこうである。
信長が焼き討ちを命じる→光秀がそれはまずいと説得→信長が応じず「比叡山、焼き払うべし‼」→僧侶から避難していた女子供まで皆殺し……。
しかし、研究によって現実の焼き討ちはこうではなかったということが明らかになっている。戦後になって、比叡山では発掘調査が本格的に実施された。その結果、明確に信長の比叡山焼き打ちで焼失が指摘できる建物は、根本中堂と大講堂のみで、ほかに見られる焦土層は、焼き討ち以前に廃絶していたものが大半だということが明らかになった。
「全山大虐殺」はまったく過去のもの
こうした調査結果をもとにした兼康保明の「織田信長比叡山焼打ちの考古学的再検討」(『滋賀考古学論叢』第1集、1981年)では、「織田信長の人物像をはじめとする戦国時代の歴史観を再構築しなくてはならない時期が訪れつつある」としている。
信長研究の大家であった谷口克広『信長の天下布武への道』(吉川弘文館、2006年)では、殺戮が八王子山(別名:牛尾山、日吉大社の北側の位置に聳えるご神体のお山)を中心として行われたとしており、長らくイメージされていた「全山大虐殺」はまったく過去のものとして考えられるようになっている。
そもそも、信長が比叡山に怒り狂うまでには、それなりの経緯がある。
発端は信長による比叡山の寺領横領だった。つまり最初にケンカを売ったのは信長側である。これに怒った延暦寺は朝廷に訴え、朝廷から寺領を返せという綸旨まで出たが、信長は無視した。
こじれた関係の中で1570年、浅井・朝倉連合軍が比叡山に立て籠もった。信長は包囲したものの、四方から敵に囲まれる形になり、結局は天皇の調停で和睦するしかなかった。この「志賀の陣」の最中には弟・信治が浅井・朝倉勢に討たれている。

