光秀は“信長の本気度”を見抜いていたか
信長と延暦寺の関係は、まさにこれだった。延暦寺は「また難癖をつけてきた権力者」への慣れた対処法で臨んだ。黄金を贈って、頭を下げて、うまく丸め込めばいい。これまでも何度もそうやってきた。
しかし両者には、周囲の常識が通じない共通点があった。メフメト2世は「千年間誰も落とせなかった。当然だ。俺がいなかったから」という厨二病全開な思春期(当時21歳)。信長もまた、身内に手を出されると損得勘定が消える男だった。弟・信治の死は、信長にとって「舐められた」ではなく「やられた」だった。そうなると、もう止まらない。
しかし‼ ここに一人だけ「あ、これはもうダメだ」と察していた男がいた。明智光秀である。
光秀は比叡山東麓の宇佐山城を任されていた。最前線で信長の動向を逐一把握していた男だ。そして能力が高いということは、見たくないものまで見えてしまうということでもある。
信長は本気だ。これは止まらない。
光秀にはそれが読めた。だから同僚たちに言って回ったはずだ。古参の重臣・柴田勝家にも、筆頭家老格の佐久間信盛にも。「上様、本気で焼きますよ」と。
「焼き討ち前」に情報を伝えた光秀
返ってきたのはこんな反応だっただろう。
「ほう、新参者の割にはよく上様の心中を読めるものだな(笑)」
「まあまあ光秀殿、書物の読みすぎじゃないですか。戦場は理屈通りにはいきませんよ」
「光秀殿、上様が本気かどうかは俺が一番わかっとる。あそこは攻めん。攻めれんわ」
と、こんな感じに「光秀殿はまあ……頭はいいんだけどな。融通が利かんというか、なんというか」とばかりに、本気にされなかったのだろう。
こうなったら自分で動くしかない。光秀は焼き討ちが不可避と判断し、粛々と準備を始めた。焼き討ちの10日前、光秀は地元の土豪・和田秀純に書状を送っている。
この有名な文書である「仰木之事ハ是非共なてきりニ可仕候、頓而可為本意候」。つまり、仰木のことは是非とも皆殺しにする、すぐにそうなるだろう、とある。後世この一文だけを取り出して「光秀は積極的に虐殺を望んだ」と読む向きもあるが、この書状をよく読むと、同時に信長の出陣日程を正確に和田に伝えている。また8月2日に和田に送った書状では、芦浦観音寺に「18日に信長が動く」という事前通知していたこともわかる。
和田光生「比叡山焼き討ちと天正の復興 明智光秀の果たした役割」(『成安造形大学附属近江学研究所紀要』第11号、2021年)は、この書状を丁寧に読み解き、光秀が焼き討ちを前提として周辺の土豪を懐柔し、綿密な事前準備を進めていたと指摘している。

