「後片付け」は光秀に丸投げ

さらに堅田(琵琶湖沿岸)などにも放火され、仏法はまさに破滅した。言葉に尽くせぬ、あまりにも無残な出来事である。これでは王法(国家の秩序や王権)はどうなってしまうのだろうか。大講堂、中堂、そして谷々の伽藍まで、一軒残らず焼き払われたとのことだ。

(山科言継『言継卿記 第四』国書刊行会、1915年)

おそらくは京の町から煙くらいは見えたこと。さらに、麓あたりで様子を見た人が話を伝えて、とんでもないことが起こっているという話は尾ひれがつきながら拡がったのだろう。

翌9月13日、信長は午前9時頃には馬廻り衆だけを連れてさっさと比叡山を出発、上洛して将軍・足利義昭に報告している。「やることやったんで」という感じだ。後片付けは全部、光秀に丸投げだった。

戦死者の処理、逃げた者の捜索、寺領の接収、周辺住民への対応。すべてが光秀の仕事になった。そして論功行賞として、光秀は志賀郡を与えられ、坂本城の築城を許された。織田家臣団で最初期の城持ち大名という破格の待遇である。

“あの夜の比叡山”を見続けた光秀

しかし考えてみてほしい。与えられた土地は、自分が指揮した焼き討ちの現場そのものだ。坂本城の窓から毎日見えるのは、あの夜の比叡山である。

現代で言えば、自分が主導した不祥事の現場に「功績を認めたから子会社の社長にしてやる」と送り込まれたようなものだ。褒賞をもらったのか、現場に釘付けにされたのか、本人にもわからない。

光秀だけが、あの夜に比叡山で何が起きたかを正確に知っていた。誰も信じなかった警告、混乱の中で逃がした僧たち、そして自分が下した「なてきり」の命令。それをすべて抱えたまま、毎日比叡山が見える城に住み続けた。

本能寺の変まで、あと11年。光秀は毎日、あの夜の比叡山を窓から眺めながら、坂本城で執務を続けた。

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