比叡山には「正常性バイアス」が働いたか

さて、和田論文によれば、この和田秀純は六角の系譜という家伝を持つ南雄琴の在地土豪であった。前年の志賀の陣では浅井方として活動していた和田だが、光秀の懐柔工作に応じて1571(元亀2)年に光秀が宇佐山城(大津市南滋賀町)を任されると、織田につくことを決めた。そのための使者から書状を受け取った光秀は感涙したというから、よほど嬉しい出来事だったに違いない。そんな関係があってこそ、光秀は事前に「上様の焼き討ちは本気である」として細かく情報を伝えたのである。

これは単に伝えているわけではない。現地にネットワークを持つ和田に「もう、上様が止まらないので、さっさと避難するよう説得してくれ‼」というわけだ。和田もならばとさっそく動いたに違いない。

しかし、ここで問題になったのはおそらく正常性バイアスだ。

比叡山の側には、根拠のない自信があった。八王子山は日吉社のご神体の山である。いくら信長でも、ご神体の山に攻め込んでくるはずがない。攻め込んだら天下の笑いものだ。せいぜい麓の坂本の町あたりを焼いて、威圧するくらいだろう。ここ山上は安全だ。

しかも延暦寺という組織には、意思決定の構造上の問題があった。和田論文が指摘するように、延暦寺が物事を判断する場合、僉議、つまり衆議が普通の進め方で、重要な決断が執行部だけで行われることはなかった。

「組織の民主主義」が逃げ遅れにつながったか

つまり「信長が本気で攻めてくる」という情報が入っても、山全体に危機感が共有されるまでには時間がかかる。しかも大多数は「まさか」と思っている。衆議をとれば「避難しよう」という声より「ここは安全だ」という声が勝つ。

組織の民主主義が、逃げ遅れを生んだのである。

さて、こうして行われた焼き討ちだが、山科言継の日記『言継卿記』の元亀2年9月12日条には、こう記されている。

織田弾正忠従暁天上坂下被破放火、次日吉社不残、山東塔、西塔、無童子不残放火、山乗悉討死云々、大宮辺八王子両所持之、数度軍有之、悉討取、講堂以下諸堂放火、僧俗男女三四千人伐捨、堅田等放火、仏法破滅、不可説々々々、王法可有如何事哉、大講堂、中堂、谷々伽藍不残一宇放火云云

織田信長(弾正忠)が夜明け前から坂本(比叡山の麓)へ攻め上り、放火して焼き払った。続いて日吉大社も残らず焼かれ、山の東塔・西塔、さらには延暦寺の稚児(童子)にいたるまで容赦なく放火された。

山の上では(抵抗した僧兵らが)ことごとく討死したという。大宮や八王子のあたりに立てこもって激しい戦闘が数回あったが、最後には全員が討ち取られた。講堂をはじめとする諸堂にも火が放たれ、僧侶、俗人、そして男女を問わず、3000~4000人が切り捨てられた。

信長比叡山を焼く
信長比叡山を焼く(写真=絵本太閤記 二編巻六/ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons