無視、弟の死…比叡山への“個人的な恨み”

つまり信長にとっての比叡山は「宗教的権威への挑戦」でも「中世的秩序の打破」でもない。自分の警告を無視され、敵を匿われ、身内まで死なされた。個人的な恨みの相手だった。

目的も「焼き尽くすこと」ではなかった。比叡山は北陸路と東国路が交わる軍事的要衝である。浅井・朝倉が再びここに立て籠もれないよう、拠点としての機能を完全に潰すことが目的だった。

舐められてキレた。身内を殺された。軍事拠点として邪魔だった。この3つが重なって、1571年9月12日が来たというわけである。

そもそも、延暦寺はもとより信長陣営も「え? 焼き討ちって本気なのか」という感覚だったろう。

なにしろ、焼き討ち前まで信長は封鎖を行い何度も「焼くぞ‼」と脅しをかけている。一方の延暦寺は黄金を贈って攻撃中止を嘆願している。つまり信長が「舐めてんのか、やるんならやるぞ、オラァ」と肩をいからせ、一方の延暦寺はニヤニヤしながら「えろうすいません、これでなんとか〜」とカネを握らせて話を丸く収めようとしている。

いわば、交渉が長引いている段階である。信長以外は、誰も本気で攻撃してくるとは思っていない。あくまでパフォーマンスである。

織田信長画像
織田信長画像(写真=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons

「コンスタンティノープル陥落」に似ている

この状況は、遡ること約120年前、1453年5月29日のビザンツ帝国のコンスタンティノープル陥落に近い。これは1000年あまりにわたって続いたビザンツ(東ローマ帝国)がオスマン帝国によって滅ぼされたという世界史上の大事件である。

ところが、一時期は大帝国だったビザンツだが衰退してからは、姑息な戦術を駆使していた。

そして、末期のビザンツ帝国には、得意の外交カードがあった。オスマン帝国の王位請求者オルハン王子をコンスタンティノープルに匿い、「いつでも解き放てるぞ」とメフメト2世への牽制に使うというやつである。要するに「お宅の身内のトラブルメーカー、うちで預かってますけど、何かご要望は?」という、いかにも老獪な帝国外交の残滓である。

これにメフメト2世がブチ切れた。

しかし誰も本気だとは思っていなかった。ビザンツ側は「いや〜、やりすぎちゃったかな……いくら払えばいいです?」という感覚だった。

オスマン側の大宰相ハリル・チャンダルルも猛反対している。「陛下、陥落させたらヴェネツィアとの商売はどうするんです。それどころかキリスト教世界全体を敵に回しますよ。あいつら、援軍を出してもらうためなら東西教会の合同だってやりかねない、生き残るためならプライドの欠片もないヤツらなんですから」というわけだ。

メフメト2世以外、その場にいた全員が「まあしばらく包囲していたら、向こうが折れて幾らか払って終わりだろ」と思っていた。