食費や被服費などは全部自分で

高2になった松竹さんは、コーラス部に誘われたことがきっかけで不登校を脱する。コーラス部で刺激を受けた松竹さんは、音大進学を決意し、思い切って両親に打ち明ける。

だが案の定「音大なんて金がかかる! 国立大の教育学部の音楽科にしろ! 将来は公務員になることしか許さない!」と猛反発を食らったが、この時ばかりは引かなかった。松竹さんは、姉が中高大と私立だったことを引き合いに出し、「絶対に音大しか受けないし、行かない!」と譲らず、渋々両親が折れることとなった。

松竹さんは、高校の音楽教師の紹介で、音大の声楽科の教授とピアノ科講師から3カ月だけ指導を受け、見事合格する。

この時の指導料は親が渋々払ってくれたが、後々まで文句を言われ続けた。

音大に入学した松竹さんだったが、音大の学費だけは親が払う約束を取り付けていたものの、それ以外の食費や被服費などは、全部自分で賄わなければならない。家庭教師を掛け持ちし、長期休みはキャンプ場のインストラクターをやって稼ぎ、小ぶりのグランドピアノも自分のお金で購入。遊ぶ暇などなかった。

両親からは、「学がある女は結婚できない」「どうせお前は結婚できない」と顔を合わせるたびに罵倒された。

大学卒業後は、卒論でお世話になった障碍児の音楽療法を研究している施設に、住み込みで就職した。以後、松竹さんは両親とほぼ絶縁関係になった。

21歳差のカップル

松竹さんは3年ほどで退職すると、音楽療法を学ぶためアメリカ留学を見据え、都内にある語学学校に入学。

「退職後、留学するまで実家に身を寄せようと考えたのですが、『お前がいると姉さん夫婦に角が立つ』と母に拒否されたので、アパートを借りて一人暮らしを始めました。障碍者施設の指導員を退職し、退路を断っていたので、半年後に奨学生に選ばれたのは幸いでした。授業料が無料になり、2カ月間ですが留学でき、現地での試験にパスして帰国した後、その語学学校の事務員に採用されました。当時、女性としてはかなり良い給料でした」

語学学校で働き始めた松竹さんは、27歳の時に現在の夫と出会う。夫は21歳年上で、出会ってすぐに交際に至った。

1年で語学学校の事務員を辞めてアメリカに渡った松竹さんは、日系企業の秘書を務め始めるが、会社の不祥事をきっかけに帰国。

法律関係の英文書類を整理している女性の手元
写真=iStock.com/Jacob Wackerhausen
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28歳になっていた松竹さんは、交際が続いていた彼に結婚を迫り、ついに結婚。

実家を出て以降、没交渉となっていた両親に念のため結婚の報告をすると、祝福の言葉は一切なく、「結婚して変な子どもが生まれたら、うちのせいじゃないよ」「子どもを連れて戻って来るなよ」「二度と敷居をまたぐなよ」などと言われた。

「両親は毒親です。関わりを絶った私はあれ以降、文字通り敷居をまたいでいません。両親は亡くなったようですが連絡はなく、2024年に弁護士が『遺留分の請求権利を行使しないでほしい』という連絡をしてきたことで知りました」

権利行使しないでほしい理由の説明もろくになかったが、すでに絶縁状態だった松竹さんにも両親への愛情や遺産を受け取る意思もなかった。