厚生労働省によると、2025年3月時点の生活保護の申請件数は、2万2484件(前年同月比867件増加、4.0%増)。生活保護を開始した世帯数は、2万395世帯(同1062世帯増加、5.5%増)。賃金は上がらず、物価が異常に高騰する中、さらに生活保護が必要な人々が増えるのは必至な状況だ。
介護や毒親の取材現場で筆者が以前から気になっていたのは、経済的な困窮者が生活保護を忌避するケースが多いことだった。その背景には、不正受給問題はさることながら、生活保護の仕組みの複雑さや“得体の知れなさ”が影響しているのではないか。そんな問題意識を胸に、かつての生活保護受給者の話を通じて制度の実態を明らかにし、正しく救われる人や機会を増やしていきたい。
日本で最も寒い町で人生に見切りを
佐藤卓一さん(仮名・30代)は「日本で最も寒い」と言われる町の近くで生まれ育った。20歳の時、突然大学を辞め、誰にも告げず、現金5万円と必要最低限のものだけスーツケースに詰めて上京。以降、4年に一度ほどしか帰省しなかった。
36歳の12月。佐藤さんは久々に実家に向かったが、あともう少しということころで、引き返した。人生に“見切り”をつけようと思ったからだ。
「最後の晩餐に」と立ち寄ったホルモン屋で酒を飲んでいたところから記憶がなくなり、気がつくと警察署に。そこから、佐藤さんにとって人生2度目の精神科の閉鎖病棟入院が決まる。翌月に退院すると、精神科医の勧めで生活保護を申請することになった。
彼はなぜ人生に見切りをつけようと思ったのか。入院を余儀なくされたのか。探っていくと、原因は「幼少期」にあった――。
仲の良い家族を窓の外から見ている
北海道で生まれ育った佐藤さんは、祖父母の代から食堂を営む家に長男として生まれた。きょうだいは、15歳年上に長女、4歳上に次女、5歳下に三女の4人きょうだいの3番目。1階が食堂になっており、2階の住居部分には父方の祖父母が同居していた。母親は離婚歴があり、長女は母親の連れ子だったが、家族仲は良かった。
「国道沿いの少し箱の広い食堂を営んでいた両親は忙しく、きょうだいが多かったため、小さい頃から私は『良い子でいなければいけない』『両親に迷惑かけてはいけない』と思っていました」
母親は朝早くから子どもたちの朝ご飯を作り、幼稚園の時は父親が車で送ってくれた。子どもたちが幼稚園や学校へ行くと、店の支度をし、仕事が終わるのは21時頃。子どもたちの世話は主に祖母がしていた。
定休日は月曜日だったが、両親は食材の仕入れや仕込みがあり、実際は休んでいなかった。
「幼い頃、夏休みや冬休みなどの長期休みがあると店が忙しくなるので、私たちきょうだいは母の姉の家に預けられました。寂しくなかったと言えば嘘になります。しかし、それもしかたないことだと思っていました。あと何日寝れば家に帰れるかとカレンダーを見つめる日々。私は両親や祖母の言うことを聞き、わがままを言わず、1人でできることは1人でしました。こうして“よい子”が出来上がったわけです」
両親と遊ぶ時間などめったになく、家族全員で過ごすのは年に1回、1〜2泊でドライブ旅行に行くくらいだったものの、家族全体はとても仲が良く、温かい家庭。だが、幼い佐藤さんの心の奥底では孤独感を抱いていた……。
「家族の中に自分はいないんです。イメージするとしたら、仲の良い家庭を、窓の外で1人凍えながら見ている感じです」
その感覚を持つようになった発端は、幼稚園のお泊まり会だった。
「幼稚園の年長の時だったかな。園の子とその保護者でお泊まりするイベントがあって、大浴場で同級生のお父さんの裸を見た時に性的興奮を覚えたのが始まりでした」
それ以降、「どうやら他のみんなと違うらしい自分」を隠すようになる。その対象は、家族も含まれていた。
「両親が忙しかったので、私はすっかりお祖母ちゃん子に育ちました。その祖母が、『嘘をついてはいけません』『隠し事をしてはいけません』『人には優しくしましょう』など、道徳心を教えてくれました。その教えはいいことなのですが、私は『嘘をついて隠し事をしている自分は悪い子なんだ』っていう認定を、自分に下してしまったんですよね。なので、何をするにしても自己否定から入ってしまう。『自分がおかしいのだから、周りに合わせなきゃいけないんだ』っていうのが私の価値基準でした」
小学校に上がる頃にはすでに「常に自分と他人の間には壁が一枚挟まっている感じ」があり、家族と接するときでさえも、「嫌われないように」「変に思われないように」偽りの自分を演じていたという。
「小学校に入っても、『自分はみんなと違うから、誰とも打ち解けられない』と思って心の壁を作ってしまったので、1人も友だちができませんでした」

