大河ドラマでも描かれる通説

姉川の戦いは「豊臣兄弟!」では、概ね次のように展開する。

織田方は、藤吉郎の軍師である竹中半兵衛(菅田将暉)の策で、近江(滋賀県)と美濃(岐阜県南部)の国境に位置する浅井方の苅安城(岐阜県瑞浪市)と長比城(滋賀県米原市)を調略し、織田方に寝返らせる。続いて信長は、小谷城(滋賀県長浜市)とは目と鼻の先にある虎御前山に陣を敷き、小谷城下に放火させたのち、姉川を隔てて小谷城の南側に位置する横山城(岐阜県長浜市)を包囲する。そこに遅れて徳川家康(松下洸平)の軍勢が到着し、兵数は2万1000に達した。

小谷城から虎御前山を望む
筆者撮影
小谷城から虎御前山を望む

一方、浅井長政のもとには、朝倉家の当主、義景の甥の景健が率いる8000の援軍が到着(義景は来なかった)。浅井の軍勢5000に加えて、計1万3000になった。

こうして両軍が姉川をはさんでにらみ合った末、6月28日早朝、ほら貝を合図に両軍は激しく衝突。織田軍の正面には浅井軍が、徳川軍の正面には朝倉軍がいて、最初は、織田軍は陣深くまで攻め込まれ、徳川軍に対しても朝倉軍が優勢だった。

織田軍は苦戦を強いられたが、徳川家康が別動隊に命じて、浅井・朝倉連合軍を側面から奇襲させたところ形勢が逆転。浅井と朝倉の軍はほどなく敗走し、織田軍の勝どきが響く――。

通説をしっかり押さえた展開だが、問題は、はたして通説は史実を語っているのか、というところにある。

江戸時代の史料に書かれた「家康大活躍」

もっとも疑わしいのは、徳川家康のおかげで形勢が逆転し、織田軍が大勝できた、という話になっているところである。

19世紀前半に編纂された江戸幕府の公式史書『徳川実記』では、姉川の戦いは、のちの三方ヶ原の戦い、長篠の戦いと並ぶ、家康の「三大合戦」と位置づけられている。また、江戸初期に成立した武田氏の軍学書『甲陽軍鑑』には、姉川の戦いでの家康の功について、次のように書かれている。ちなみに、同書では武田の軍法を学び、天下統一に生かした武将とである家康の戦術が称揚されている。

徳川家康肖像画〈伝 狩野探幽筆〉部分
徳川家康肖像画〈伝 狩野探幽筆〉部分(画像=大阪城天守閣蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

〈信長三万五千の人数、敵の浅井備前守三千にきりてたられ、十五町ほど逃げたるに、家康は五千の三河勢をもつて、浅井備前が同勢壱万五千の越前朝倉義景を斬り崩し候故、備前もくづれ候時、信長たてなをし、勝利を得たるは、悉く皆徳川家康がわざなり。縦い信長・家康両人同前の働也といふ共、信長は三万五千ノ人数、敵の浅井は三千なれば、つよきよはきを沙汰するに、信長衆十一人して、敵浅井衆一人をせむる、家康は五千也、敵の朝倉義景は一万五千也、家康被官一人にて、越前衆三人あてがひにして、しかも勝利をうる、(中略)姉川合戦、信長負なるべき、と美濃・近江の侍ども、書付て越し候〉

信長は3万5000の軍勢を率いながら、敵の浅井長政率いる3000の軍勢に圧倒され、15町(1.6キロ)ほど逃げたのに、家康は三河の軍勢5000で、浅井と組む朝倉義景の軍勢1万5000を崩したので、浅井軍が崩れたとき、信長が態勢を立て直して勝てたのは、みな徳川家康のおかげです。信長と家康が同じ成果を上げたとはいえ、信長は3万5000で敵の浅井は3000でしたから、強弱を判断すると、信長軍は11人で浅井軍の1人を攻めたのに対し、家康軍は5000で朝倉軍は1万5000だったので、家康配下の武士は1人で越前の3人と戦ったことになり、それで勝利しました。(中略)家康なしには態勢を立て直せず、姉川合戦は信長の負けとなったはずだ、と美濃と近江の侍たちは書き送ってきました