では同時代の資料には…

ところが、信長が姉川の戦いの当日、細川藤孝に宛てた書状(『津田文書』)に書かれているのは、全然違う内容だ。〈越前の者并に浅井備前守、横山後詰として、野村と申す所まで執り出て〉(越前の朝倉および浅井長政が、横山城への援軍として、野村という場所まで出陣してきて)と説明され、勝利した旨が述べられているのに続き、追而書(追伸)に、以下にように記されている。

〈今度岡崎家康出陣、我等手廻の者一番合戦の儀、之を論じるの間、家康申し付けられ候、池田勝三郎、丹羽五郎左衛門相加え、越前衆ニ懸り候て切り崩し候、浅井衆ニハ手回りの者共ニ其の外相い加え、相果たし候〉

このたび岡崎の家康が出陣してきて、私たちの馬廻り衆たちと先陣について言い争った結果、家康には池田恒興と丹羽長秀が加わるように申し付けられ、朝倉軍に当たって切り崩した。浅井軍に対しては私たちの馬廻り衆にほかの軍勢も加わって対処した

要するに、家康軍は信長が池田恒興と丹羽長秀を加勢させたおかげで、なんとか朝倉軍に対応でき、信長軍はほとんど直轄の一団だけで浅井軍と戦った、というのである。家康のおかげで勝てたどころか、家康は信長に助けてもらったようにしか読めない。

滋賀県長浜市野村町にある史跡姉川古戦場
滋賀県長浜市野村町にある史跡姉川古戦場(写真=立花左近/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons

正面衝突ではなかった可能性

いまの史料の比較で見えるものがある。とにかく、やたらと徳川家康が持ち上げられ、そういう記述は江戸時代のもので、信長の書状などとは内容が異なる、ということだ。つまり、江戸時代になって、政治的な理由で家康中心の歴史が語られるようになり、家康が参加した合戦では、家康が勝利に決定的な影響をおよぼしたように話がつくられた、ということだろう。

つまり、姉川の戦いが重要な戦いだとされるのも、家康を持ち上げるためで、私たちは教科書の記述を含め、いまだに江戸時代に形成された歴史観に支配されていることになる。では、実際には、姉川の戦いとはどんな合戦だったのか。

筆者が妥当だと思うのは、太田浩司氏の説である。太田氏は〈浅井・朝倉軍は奇襲攻撃に出たのだと考える〉と書いている(『浅井長政と姉川合戦』淡海文庫)。それはこういうことだ。〈信長は北に「後詰め」に来た浅井・朝倉軍には当然気づいていたが、『信長公記』にもあるように、突然南下してくることはないだろうと読んでいた。浅井・朝倉軍はこの油断をついた。この段階で、信長軍に突入すれば、その布陣の背後を襲うことができ、信長の本陣を直接襲撃できるのである〉。

そして、奇襲はある程度は成功したが、〈浅井軍と織田軍の戦闘で、浅井軍が押し返されたのを見て、朝倉軍が退却を始め、これを徳川軍が追撃した際に真柄(十郎左衛門)以下の戦死者が出たのではないだろうか〉。