卵の安定供給のために養鶏場を作った
これほど良い商品を作っていれば当然出てくるのが、競合相手だ。キユーピーマヨネーズの需要は発売から数年で急増し、日本のマヨネーズ市場に新たな競合他社を呼び込む結果となった。ところが、アメリカで始まった大恐慌を引き金に昭和金融恐慌が勃発すると、多くのライバルブランドは経営破綻してしまう。
そんな中にあっても、のちにキユーピー株式会社となる食品工業株式会社の業績は成長を続けていた。1930年代を通して売り上げは毎年右肩上がりを記録し、会社は増え続けるマヨネーズ需要に応えるため原材料の輸入を拡大し、2カ所目の工場を新設。養鶏場も設置した。
そう、卵農場を作ったのだ。中島と彼のチームは、卵黄のみを使うキユーピーマヨネーズの製造を滞りなく行うには、質の良い鶏卵の安定確保が不可欠であることに気付き、それを自社で供給することに決めた。
彼らは、東京府北多摩郡(現在の東京都府中市)の砂埃舞う土地の一角に西府農場を開設し、木造の鶏舎を建て、地元の働き手を確保すると、屋内外でたくさんの雌鶏の放し飼いを始めた(西府農場は、現在キユーピー株式会社の中河原工場として存続している)。
第二次世界大戦で原料不足、生産量は底を打った
マヨネーズの生産量の増加に伴い、新たな問題が浮上した。中島が数十年にわたり頭を悩ませてきた課題、「大量に残る卵白をどうするか」である。当時、食品工業株式会社では、卵黄を取り出したあとの卵白は廃棄するしかなく、このことが中島にとって「深刻な問題」だったことが同社の報告書にも記されている。
その解決策として、食品工業は、残った卵白を菓子製造業社、製薬会社、印刷会社に販売し始め、のちに個別の製品として乾燥卵白の製造も開始した。卵白を乾燥させ粉末にするアイデアは大当たりし、農場に乾燥機が導入された。
しかしながら、この卵白問題は、1930年代末に食品工業株式会社が直面した苦難に比べれば些細な悩みに過ぎなかった。ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発すると、サプライチェーンが世界各地で寸断されたため、植物油を含め、マヨネーズ製造に不可欠な、卵以外の原料の輸入が困難になったのだ。ほどなくして、キユーピーマヨネーズの生産量が目標を下回り始めた。1940年に日本に戦争の足音が近づくと、生産量はどん底を記録した。

