質の悪い「闇市」の原料には決して手を出さなかった
太平洋戦争の開戦とともに、食品工業株式会社(現キユーピー株式会社)も当時の多くの日本企業と同様に、国の軍事活動に巻き込まれていく。マヨネーズを作りたくとも、働き手の多くが徴兵され主原料も不足していたため、とうてい不可能だった。工場ではマヨネーズの生産がストップし、軍需品の製造が始まった。同社は兵士のために、卵黄を原料とした「ヨークミン」という“栄養ドリンク”も開発した。
戦時中、配給制度や不安定な供給網の機能不全を補うように闇市が出没した。闇市は、多くの日本人にとって日常生活に不可欠なものとなり、1945年に戦争が終結したあとも、国が復興するあいだ物資の調達源として残り続けた。食品工業の社員たちは(そしておそらくは顧客も)、キユーピーマヨネーズがすぐにでも華々しく復活すると期待していたが、そのためには原料を闇市で入手する必要があった。
中島は、これをかたくなに拒んだ。彼にとって、闇市での仕入れは自身の信念に反することだった。違法かつ品質の劣る材料を使って製品の質を落とすことはしたくなかったのだ。中島の考えに同調できない大勢の社員が会社を去り、そのうちの何人かは共同で別のマヨネーズ会社を立ち上げさえした。
仲間は次々と去り、わずか数人に…
1948年にようやくキユーピーマヨネーズの製造が再開された際、会社に残っていたのは中島と息子の雄一のほか、わずか数人だったという。5年の休止期間があったため最初の生産量は少なく、社員が三輪トラックで注文先へ配達できる程度だった。しかし間もなくすると、中島の愛すべきオレンジママレードの製造元である「青旗缶詰株式会社」(現アヲハタ株式会社)にマヨネーズ製造の一部を委託しなくては回らないほど、生産量は増加した。
それでもまだ、食品工業株式会社は財政的な立て直しに苦戦していた。中島は事業を継続するために、私物を売り払い、銀行から多額の借り入れを行っていた。状況は厳しいままだったが、ある日、帰宅した中島を驚かせたものがあった。新聞紙に包まれた3万円の札束だ。ある友人からの予期せぬ贈り物が、中島の会社に一筋の希望の光をもたらした。
