関東大震災の復興で「西洋化」を確信した

イギリス、そして初めてマヨネーズを知ったアメリカで数年間を過ごした中島は、帰国して間もない1919年、東京で「食品工業株式会社」を設立した。中島は、ソース類の製造を開始し、まずまずの成功を収めるようになっていた。ところが1923年9月1日、すべてが一変する。この日、ちょうど正午になろうかというとき、マグニチュード7.9の大地震が日本を襲い、東京と近隣の県に甚大な被害をもたらした。

中島は、その復興のさなか、国が西洋化していくのを目の当たりにした。都市計画を担う人たちにとって、震災後の都市部の再建は超高層ビルなどの西洋式のインフラを導入する絶好の機会だったのだ。

中島には、この洋風化の波が建設分野を超えて広がるという予感があった。女学生の装いが伝統的な袴からセーラー服へ変わっていくのを見て、日本の家庭料理にも変化が訪れ、西洋の調味料やマヨネーズだって使われるようになるだろうと考えた。

整髪料と間違えられ、初年度は全く売れなかった

1925年、中島は、日本初の国産マヨネーズを発売した。10年前に実業練習生として訪れたアメリカですっかり虜になったあの調味料を、研究に研究を重ねた末、自身のアレンジのもと再現したのである。当時の西洋産マヨネーズのほとんどが(現在と同様に)全卵を使って作られていたのに対し、中島のマヨネーズは卵黄のみを使うことでコクのある味わいに仕上がった。そして商品ラベルには、あの象徴的なキユーピーのキャラクターが採用されたのだった。

発売当初のキユーピーマヨネーズ
出典=『ラブ! キユーピー』
発売当初、キユーピーマヨネーズはこのようなガラス瓶に入って売られていた。

これは大きな賭けだった。当時、日本でマヨネーズはほとんど知られておらず、整髪料と間違えて購入した客もいたほどだった。そこで、食品工業株式会社の営業マンたちは小売店を訪れ、アメリカで中島を魅了した缶詰の魚とマヨネーズを和えたものを試食してもらい、キユーピーマヨネーズを置いてくれるよう頼んで回った。

発売初年度のキユーピーマヨネーズの販売量は、わずか120ケースだった。しかし翌年、この数は一気に1000ケースに。中島は、確かな手応えを感じていた。