「ヒュースの件」だけは我慢できなかった
こんな妻を相手に喧嘩などできるはずがない。怒らせてしまったら、なだめるかスルーするしかない。実際、八雲はセツの怒りをスルーすることにも慣れていた。
後年、静岡県の焼津に避暑で滞在していた際、八雲は地元の壊れた地蔵を石屋に作らせ、寄贈者として一雄の名前を刻んだ。それを知ったセツが「地蔵は子供が死んだ時などに作るもので縁起でもない」と激怒すると、八雲は「ほほウ、ママさんまた立腹です」とつぶやいて受け流したという(小泉一雄『父「八雲」を憶ふ』警醒社、1931年)。
そんな八雲が、ヒュースの件だけは我慢できなかった。「あんな女に呼ばれてノコノコ出かけるとは何事か」という怒りを、珍しく抑えられなかったのだろう。
なお、八雲の警戒心は正しかった、と後に証明されることになる。八雲の死後、遺稿の編集が進む中、ヒュースは編集者に「私は八雲とは親友だった」と連絡をよこしてきたのだ。迷惑この上ない。
父親以上にシニカルだった一雄は、ヒュースが「私もハーンも同じケルト人です(注:ヒュースはウェールズの生まれ、ハーンは父親がアイルランド人なので2000年くらい前の先祖はケルト人かもしれない)」と主張していたことを取り上げ、こう切り捨てている。「キリストを売ったユダは、同じユダヤ人ではなかったでしょうか」と(小泉一雄『父「八雲」を憶ふ』警醒社、1931年)。
長男、お嫁さんにするのは「ヒステリーでない人」
ともあれ、愛情表現がいささか変わっている八雲であるが、セツを全力で愛していたのは事実。ただし、喧嘩となるとヒステリーを起こされて確実に自分が負けてしまう。かつ、地蔵のようによかれと思ってやったら激怒するしで、どこが感情の地雷なのかわからないという点では閉口していたようである。
この慈しみ深い妻であり母であるセツの感情のブレは家族にとっての悩みでもあった。一雄は、心底「これさえなければ……」と思っていた心情を、こう綴っている。
(小泉一雄『父小泉八雲』小山書店、1950年)
一雄がここまで書くのは理由もある。なにしろ、セツのヒステリーの被害は一雄にも及んでいたからだ。
一雄は自分と女中が食べた卵の数をごまかした時に母が激怒したことを回想している。その激怒たるや「気も狂います。皆が妾を馬鹿にするから!」と金切り声をあげて、障子まで突き破るというもの。

