「愛し方」が特殊すぎる

もはやいい話ではない。ともすれば一種の変態の類いである。

妻の鼻根部を「一小平原」と表現し、指先で撫でながら「珍しい……」と呟いているわけだ。しかも、一雄が子供の頃の思い出として書いているところを見ると、一度や二度じゃなかったことが推測できる。そうなると、余計にちょっと八雲先生大丈夫かなと思ってしまう。

ここまで記して来たとおり、セツの家族(セツの養母は一貫して同居)、そして女中、さらには書生まで常日頃から同居している。しかも、一雄が鮮明に覚えているところを見ると、子供も増えてからの時期の出来事であろう。そんな家で、しかも子供の前で父親が母親の鼻の付け根を、撫でているのだ。八雲が、セツを愛しているのは間違いない。ただその愛し方が、あまりにも特殊だったのだというわけだ。

さらに、八雲のセツへの愛情表現は体形にまで及んでいく。セツは若い頃は太っていて体重も多かった。ところが、八雲がセツを呼ぶときには絶対にsmallかlittleという一言を添えていた。手紙で書くなら「小ママさん」という具合である。さらに、褒める言葉も多かった。

「小羊の香のママ」「私の小さい肥った雌鶏」「小餅のママ」などセツを褒めるために、八雲は様々な言葉を生み出している。

ラフカディオ・ハーン
ラフカディオ・ハーン(写真=『Concerning Lafcadio Hearn』/PD US/Wikimedia Commons

幼児が母親に贈るような言葉に近い

いやいや、これで褒め言葉になっているというのは、少しおかしい。「小餅のママ」なんて遠回しに肥っていることを揶揄しているようにしか聞こえない。「私の小さい肥った雌鶏」は、もはや褒め言葉ではなく悪口である。

これは重要なポイントだ。八雲の言葉の感覚が独特すぎて、悪口と愛情表現の境界線が溶けてしまっているのである。あるいはセツの側が、八雲という人間の「言語」を完全に習得していたということかもしれない。夫婦とはいえ、英語と日本語という言葉の壁がある二人だ。それでも長年連れ添ううちに、セツは八雲の発する言葉の意味よりも、その背後にある感情を読み取ることに長けていったのだろう。

そう考えると、これらの奇妙なあだ名には共通点がある。どれも、幼児が母親に贈るような言葉に近いのだ。「小餅」「小羊」「雌鶏」いずれも柔らかく、丸く、温かいものである。母の愛情を知らずに育った八雲が、生涯をかけてセツの中に見出し続けたものが、そこに凝縮されている。悪口にしか聞こえないあだ名も、文豪らしからぬ幼稚な甘え方も、すべてはその裏返しだったのだ。

もう初老を迎えて、かつ子供もいるというのに目を気にせずに子供みたいに甘える八雲と、それを「あらまあ」とニコニコしているセツ。それは、とても微笑ましい光景といえるかもしれない。