「クッソー、見とけよ」自分の店を持とうと決めた瞬間
当時を振り返り、ガハハと笑う古田さんだが、このとき覚悟を決めていた。
入院していた父に「私に会社を預けてくれないか。自分の考えでやっていきたい」と願い出た。父からバトンを受け取り、32歳で家業を継いだ。
家業を継いでからは、大口の卸先を次から次へと開拓した。朝から深夜までパンを作り続けるなか、ある思いが芽生えてくる。
「自分の店を作りたい」
その背景には、卸売り先との力関係があった。
「あんたんとこの社員の生活は、俺のところが守ってやってるんだ」
取引先から言われた言葉を、今でも覚えている。値段は向こうが決めて、逆らえば取引を切られる。「潰れるぞ」と言われたこともあった。
「プライド傷つくじゃないですか。クッソー、見とけよって思いましたね」
自分たちで値段を決めたい。自分たちが作ったパンを自分たちの店で売りたい。1986年、本社工場を移転し直営店を開いた。店の名は、「Full Full(フルフル)」。
焼きたてのない「町のパン屋」だった
意を決して直営店を開いたものの、最初は閑古鳥が鳴いていた。
1日の売り上げは7000円から1万円ほど。振り返ればそれもそのはず、焼きたてのパンを提供するわけでもなく、工場で学校向けに作ったパンを並べているだけだった。新たな人材を採用し、4〜5年かけて焼きたてパンを提供するスタイルを築いていった。スタッフも増えてきたところで、1992年には有限会社フルタ製パンから株式会社フルタパンへと組織変更を行った。
数年後の1998年、転換点が訪れる。取引のあったグリーンコープとの縁で国産小麦と出会った。「最初はグリーンコープさんが言うなら」くらいの気持ちで使いはじめたが、小麦について勉強するうちに、次の世代のために食料自給率に貢献したいと考えるようになった。4人の子を持つ父としても、食の安全は他人事ではなかった。子どもたちがアトピーに苦しむ姿を見てきた。「うちは国産小麦しか使わない」と決め、屋号を「国産小麦パン工房 フルフル」に変えた。
しかし、国産小麦のパン作りは困難を極めた。国産小麦はタンパク質の含有量が少なく、焼き上がりがへこんだり、形が崩れたりした。パンにならない時期もあった。それでも古田さんは諦めなかった。北海道の生産者のもとに足を運び、良い小麦を作るために話し合いを重ねた。
取引先からは価格について厳しい声も届いた。グリーンコープの組合員たちは、一般的なスーパーで売られているパンに比べて1〜2割値段が高くても、国産小麦のパンを買って支えてくれた。このとき、「直接自分たちの声で伝える売り方」を学んだと振り返る。
「それまでパン屋は好きじゃなかった。嫌々ながら継いだ。でも、初めてこの仕事は大事やなと思いましたね。日本のためにもなるし、地域のためにもなる。子どもたちの健康のためにもなる。食べ物には責任がある」
初めて「パン屋」という仕事に意味を見出した瞬間だった。


