学びにくる事業者は多い。作り方を一から教えても、前編で紹介したようにカットして売るスタイルをすべて伝えても、続かないところが多いという。効率を考えると、手間のかかる工程をカットしてしまうそうだ。
「うちのベースはね、明太フランスがうまい店じゃなくて、社員のお客さんへの思い入れが強い店なんですよ。それがお客さんに伝わってる」
こうして古田さんへのインタビューが始まった。最初に飛び出したのは、思いがけない言葉だった。
「もともとパン屋の仕事は好きじゃなかった。銀行に勤めようかなと思ってたんですよ」
「店を継ぐのが嫌だった」
毎朝4時には起きて、小学校に行く前の2時間、父が運転するミゼットの横に乗り、客先にパンを届ける。これが古田さんの日課だった。
コッペパンやヤキソバパン、コロッケサンドを地域の学校や大学に届けた。家では、パンを作る職人もいっしょに食卓を囲んだ。
「嫌でしたよ。でも、姉がやってるのを見てたから、手伝うのが当たり前だと思ってた」
家業を継いだ父からは、「工業高校を出て、設計士になれ」と言われていた。野球が好きだった少年は、スポーツ推薦で名門大濠高校へ進学し、野球漬けの日々を送った。大学を卒業したら、銀行に就職するつもりだった。普通の暮らしがしたかった。
ところがちょうどその頃、父が体調を崩し、働くことが難しくなった。
「親父は『お前、好きなことせい』と言ってくれてたんですけどね。でも、そうもいかんなと思って」
1976年、大学を卒業すると23歳で家業に入った。
職人との衝突
若さもあり血気盛んな古田さんを待ち受けていたのは、ひと回りもふた回りも年上のパン職人たち。小さい頃から見てきた顔ぶれだった。23歳の若造への風当たりは強かった。負けじとぶつかっていくと、へそを曲げられた。
「学校に卸すパンを作らないといけないのに、職人が出勤してこない。アパートまで行って、頭を下げるしかなかった」
「そりゃもう、悔しかったね」
50年近く前のことなのに、声に力がこもる。
その頃は、親方のもとに弟子が住み込みで技術を習得する徒弟制度もある時代で、職人が幅を利かせていた。悔しさを抱えながらも、強くは出られない日々が続いていたある日、事件は起きる。
納品先の高校から「パンがジャリジャリする」とクレームが入った。食べてみると、確かにジャリジャリしていた。工場に戻り職人に聞くと、原因はわかっているという。ホーローのボウルが欠けて、小麦粉に混ざっていた。わかっていて出荷していたのだ。
「商品をチェックしてなかった自分も悪い。でも、これはどうにもならんなと。職人が怖いと思っていたけど、職人の意見ばかりがとおるような職場だったら、いずれはダメになるって思った。同年代くらいの仲間を増やし、職人がへそを曲げても(アパートへ)迎えに行かなくていいようにした」


