秀吉は太閤検地で米の石高を重視
ただ、天下統一を成し遂げたあとの豊臣秀吉が1582年から98年にかけて全国規模で実施した太閤検地では、全国の土地の生産性を米の収穫量、すなわち石高という統一された単位で測り直しています。
大名の領地の価値は「何貫の銭が上がる土地か」という貫高制から、「何万石の米が穫れる土地か」という石高制へと立ち返ります。なぜか。秀吉の主たる勢力下はともかく、地域ごとに貨幣の水準、びた銭の価値、貨幣の流通度合いもまちまちだったんですね。ゆえに年貢については「この土地から米がどれくらい穫れるか」を基準にしたほうが客観的な基準で評価できたからです。
もっとも、石高制と併存するようになっただけで、銭が使われなくなって米があらゆる貨幣の代わりになったわけではありません。
豊臣秀吉は金銀の鉱山開発を進め、1587年に天正通宝、1588年に天正大判という貨幣を発行します。
10世紀で途絶えた皇朝十二銭以来、日本の政府が通貨を作ったのは久々の出来事です。とはいえ秀吉は富をため込んでおくためと、大名への報酬に使ったくらいでした。
貨幣制度を完成させたのは家康
その後、統一的な貨幣制度を完成させたのは徳川家康(将軍在任1603~05)、江戸幕府です。家康は1601年から金貨・銀貨・銅貨の三貨制度をつくりはじめ、慶長金貨銀貨を発行します。その後、1636年には幕府自ら銅銭の寛永通宝を大量に発行しました。これによってたとえば1635年に始まった参勤交代の道中等々で、日常的な取引ができるようになります。さすがに宿場町で気軽に金銀を使うわけにいかないですからね。
こうして金貨(両)、銀貨(匁)、銅銭(文)の3種類の貨幣がそれぞれの交換比率を持ちながら全国に流通する三貨制度が確立します。

