秀吉は太閤検地で米の石高を重視

ただ、天下統一を成し遂げたあとの豊臣秀吉が1582年から98年にかけて全国規模で実施した太閤たいこう検地では、全国の土地の生産性を米の収穫量、すなわち石高という統一された単位で測り直しています。

秀吉が作らせた天正菱大判
秀吉が作らせた天正菱大判(画像=As6673/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons

大名の領地の価値は「何貫の銭が上がる土地か」という貫高制から、「何万石の米が穫れる土地か」という石高制へと立ち返ります。なぜか。秀吉の主たる勢力下はともかく、地域ごとに貨幣の水準、びた銭の価値、貨幣の流通度合いもまちまちだったんですね。ゆえに年貢については「この土地から米がどれくらい穫れるか」を基準にしたほうが客観的な基準で評価できたからです。

もっとも、石高制と併存するようになっただけで、銭が使われなくなって米があらゆる貨幣の代わりになったわけではありません。