※本稿は、出口治明『日本史の極意』(SB新書)の一部を再編集したものです。
持統天皇と織田信長の共通点
持統天皇のあと僕が高く評価するグランドデザイナーとしては、奈良時代にはおらず、平安時代には平清盛がいます。室町時代には足利義満がいます。では戦国時代は? やはり織田信長が外せません。
信長が生まれ育った尾張(現在の愛知県)は、伊勢湾に面した商業地域でした。守護代の分家のそのまた分家筋という比較的低い身分に生まれた信長は、いわば「放し飼い」で育ちます。青年時代の信長は当時流行していた「かぶき者」の格好をしていました。髪を派手な糸で巻き、着物の袖を外し、半袴に火打袋をいくつもぶら下げて町中で栗や餅にかぶりつき、舎弟らとつるんで「大うつけ」と呼ばれていたほどです。現代で言えば半グレ集団のヘッドのような存在でした。
信長はこの時代に町中で庶民と遊び、商売の現場を直接見ることで、マーケットのしくみを自然と身につけたのだと思います。シェイクスピアの戯曲に描かれたイングランドの名君ヘンリー5世(在位1413~22)が、若い時分に「ハル王子」として市井の無頼漢と付き合っていた話に似ています。
マーケットを熟知していた信長
金銀銅の3通貨制の設立、楽市楽座の実行、海外との交易促進などを並べてみると、信長がほかの戦国大名に比べてマーケットを熟知していたことがわかります。
信長の判断は経済政策でも人事施策でも、自分の身の振り方についても合理的でした。
良いものは良い、悪いものは悪い。のちに朝廷で昇進を重ね、左大臣の座も目前のところまで行きながら官職を辞してしまったのも、権威や伝統に頼るだけではなく、自分の目で見て自分の頭で考えるタイプだったからでしょう。
実は信長は、仕事のミスが原因で部下を殺すことはほとんどありませんでした。問題を起こしたり敵対したりした人間に対しても、追放はしても切腹まで命じるケースは少なかったのです。
将軍になるために信長を利用したつもりが逆に従属を求められて対立した足利義昭(将軍在任1568~73)に対しても、信長は1573年に京都から追い出して室町幕府を事実上滅ぼしてはいますが、義昭を殺してはいません。大坂の石山本願寺攻めでの怠慢を責めた佐久間信盛父子も、高野山に放逐しただけです。柴田勝家が信長を「うつけもの」と呼んで信長の弟に味方したあとも、荒木村重が最初に背いたあとも、信長は彼らを上手に活用しています。


