比叡山などを処断をしたワケ

信長は一度領国化したところが一揆や寝返りを起こすと徹底的に制圧しましたが、これは信長が残虐だったわけではないと思います。1570年から74年にかけての伊勢長島一向一揆や、71年の比叡山延暦寺焼き討ちは厳しい処分でしたが、これらには理由がありました。

長崎にあるルイス・フロイスの像
長崎にあるルイス・フロイスの像(画像= Pescaterian/CC-Zero/Wikimedia Commons

信長は宗教を一律弾圧していたわけではありません。たとえば1569年にはイエズス会宣教師のルイス・フロイスに京都での居住を許可して布教を認めています。一方で比叡山を攻撃する前には、僧侶たちに「琵琶湖の北方の浅井あざい、朝倉と通じるなら滅ぼす。仏門なら中立の立場に立つべきだ」とメッセージを送っていました。

つまり経済的・政治的・軍事的な合理性に基づいて判断していたわけですね。ある意味では、モンゴル帝国の手法に似ています。「従うなら身の安全を保証する。抵抗するなら徹底的に制圧する」、そして一度決めた約束は守る。信長の事績を見ると、自ら約束を破ったことはあまり見当たりません。