比叡山などを処断をしたワケ
信長は一度領国化したところが一揆や寝返りを起こすと徹底的に制圧しましたが、これは信長が残虐だったわけではないと思います。1570年から74年にかけての伊勢長島一向一揆や、71年の比叡山延暦寺焼き討ちは厳しい処分でしたが、これらには理由がありました。
信長は宗教を一律弾圧していたわけではありません。たとえば1569年にはイエズス会宣教師のルイス・フロイスに京都での居住を許可して布教を認めています。一方で比叡山を攻撃する前には、僧侶たちに「琵琶湖の北方の浅井、朝倉と通じるなら滅ぼす。仏門なら中立の立場に立つべきだ」とメッセージを送っていました。
つまり経済的・政治的・軍事的な合理性に基づいて判断していたわけですね。ある意味では、モンゴル帝国の手法に似ています。「従うなら身の安全を保証する。抵抗するなら徹底的に制圧する」、そして一度決めた約束は守る。信長の事績を見ると、自ら約束を破ったことはあまり見当たりません。
茶道で秀吉たちの心をつかんだ
信長は人材活用に際して能力主義、実力主義を徹底しています。各地を流れてきて信長に仕えた明智光秀も適切に活用し、秀吉のような低い身分出身者も実力に応じて重用しました。これは革新的なことでした。部下からすれば、生まれやコネで判断されないほうがやる気が出るでしょう。
茶の湯を活用した人事管理システムもおもしろいですね。茶器は足利将軍家が集めた東山御物がルーツでしたが、信長は市中の茶器の名品を収集し、功績のあった部下に高価な茶道具を下賜したり、茶会の主催を特別に許可したりしています。ほかの武将に茶会を禁じることで「ティーパーティの主催を許す」というだけで、すごい褒美になったのです。
豊臣秀吉ものちに、信長から茶会を許され茶道具を下賜されて感激したと回想しています。
現代の企業でも金銭的報酬だけでなく地位や名誉を組み合わせた総合的なインセンティブシステムが重要視されていますが、信長は400年以上前にこれを実践していたのです。


