綱吉の時代、幕府は深刻な財政難
家康によって確立され安定した三貨制度でしたが、泰平の世が100年近く続いて5代将軍・徳川綱吉(将軍在任1680~1709)の治世になると、江戸幕府は深刻な財政難に直面します。江戸幕府が始まった頃は250万石の収入がありました。くわえて幕府直下の佐渡金銀山など鉱山経営もあり、朱印船貿易もありました。
金銀はだんだん採り尽くして、2代将軍・秀忠(将軍在任1605~23)から3代将軍・家光(将軍在任1623~51)の頃(1630年代)にはすでに減少に転じるなど、収入が減っていきます。
一方で支出は土木建設費や祭礼に関するお金などを中心にふくらんでいくのです。たとえば綱吉の時代には東大寺大仏殿や孔子をまつる湯島聖堂などの造営、修復事業が積極的になされています。藤田覚の『勘定奉行の江戸時代』(ちくま新書)によれば、綱吉時代には幕府の財政は11万両近くの赤字だったと推定されています。
勘定吟味役が幕府を救った
この財政危機を救ったのが、1682年に新設された勘定吟味役(いわば監査役)に抜擢された荻原重秀でした。彼は佐渡金山の立て直しを経て1695年、貨幣改鋳(すなわち金や銀の含有量を減らした新しい貨幣〔元禄小判〕を発行し、その差額〔出目〕を幕府の利益とする)をスタートさせます。
たとえば1枚あたりの金貨に含まれる金の量を3割減らしたら、2.5枚あたりもう1枚分作れますよね。これまでよりも少ないコストでたくさん貨幣が作れます。たくさん貨幣を作ってもとの慶長金銀と交換し、それをまた溶かして新しい小判と交換していけば、幕府側はめちゃくちゃ儲かります。荻原重秀はほかにも政策を組み合わせることによって、幕府に約500万両分はもたらしたとも言われています。
かつてはこの元禄の改鋳によって猛烈なインフレが起こったとして「生類憐れみの令」と並んで綱吉の悪政とされてきました。しかし近年の研究によれば、インフレ率は年3~4%程度だったようです。経済学的には物価が下落していくデフレよりも、若干のインフレで安定していたほうが景気はよくなるとされています。ということは、元禄の改鋳は理にかなった政策だったと評価できるでしょう。
荻原重秀は「貨幣は国が作るものなのだから、流通するなら瓦礫でもいい」と語ったと伝わっています。「みんなが貨幣だと信じれば、それが貨幣になる」という発想は現代の管理通貨制度にも通じる考え方です。




