今、世界を左右する巨大な感情がある。ノスタルジアだ。「過去が良かった、懐かしい」が社会を、政治を動かす。トランプ現象が典型だが、左派のマルクス再評価も同様だ。

未来に向かうべき人類が懐古に走るのはヤバい? この疑問に答えるのが『ノスタルジアは世界を滅ぼすのか』だ。英国の歴史学者である著者によれば、そもそもノスタルジアは死を招く「病気」として発見され、のちに「感情」と認知され、しまいに人心を操るマーケティングの道具になったという。

『ノスタルジアは世界を滅ぼすのか ある危険な感情の歴史』『『世界名作劇場』の 家と間取り』
『ノスタルジアは世界を滅ぼすのか ある危険な感情の歴史』アグネス・アーノルド=フォースター 著 月谷真紀 訳/東洋経済新報社/2200円+税/『『世界名作劇場』の家と間取り』ちばかおり 著/エクスナレッジ/1900円+税

17世紀のスイス。故郷を離世界を左右すれた傭兵たちが望郷のあまり、鬱状態になり食事も取らなくなり、死に至る。ノスタルジアのせいだ。大航海時代以降、世界に打って出た欧州の宿命としてコレラや結核と並ぶ深刻な疾病とされた。

19世紀、科学の時代が到来し、心理学や進化生物学が台頭すると、ノスタルジアは「病」ではなく、普遍的な「感情」と理解されるようになる。

20世紀に入ると、人々は堂々とノスタルジアに逃げ込む。1970年代、世界中でノスタルジア商品が蔓延する。ハリウッドでは、戦前を懐かしむかのように『華麗なるギャツビー』はじめ、ノスタルジア映画が大量に生産される。アートもファッションも。ノスタルジアは産業になり、マーケティングの王道になった。「懐かしさ」は人類普遍の最も強い感情の一つだからだ。

ゆえに私たちはフィクションにもノスタルジアを感じる。『『世界名作劇場』の家と間取り』は、70年代日本でスタートした日曜夜放送のテレビアニメシリーズに登場した「家の間取り」を紹介する。「フランダースの犬」「母をたずねて三千里」「あらいぐまラスカル」「赤毛のアン」など17作品の舞台となった街の写真に加え、主人公が暮らした家の間取りを著者は微細に描く。改めて気づく。日本が舞台の作品は一つもない。にもかかわらず、作品中の20世紀以前の欧米の家と街に私たちがノスタルジアを感じていたことを。秘密は、製作者たちが、現地取材を行い徹底的にリアルな空気をアニメに取り込んだからだ。マルコがトム・ソーヤーが赤毛のアンが、どんな景色の中で、何を食べ、どこで寝ていたのか。舞台となる家や街を詳細に描写することで、日本の視聴者に自身の思い出以上のノスタルジアを与えたのだ。

スタッフには若き日の宮崎駿、高畑勲らの名が。ノスタルジアの名手であるスタジオジブリの二人が関わっていたのも必然かもしれない。国や文化は違えども、「生きる」ディテールは人類共通だ。だから「世界名作劇場」のディテールを私たちは懐かしく思う。人類共通の感情であるからこそ、強い求心力を持つ。毒にも薬にもなるノスタルジアの歴史と力をぜひこの2冊で実感してほしい。

柳瀬 博一(やなせ・ひろいち)
東京科学大学リベラルアーツ研究教育院教授
1964年、静岡県生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業後、日経マグロウヒル社(現・日経BP)に入社。「日経ビジネス」記者、単行本の編集などを経て、2018年より現職。著書に『国道16号線  「日本」を創った道』『カワセミ都市トーキョー』、近著に『アンパンマンと日本人』(新潮新書)がある。

※本稿は、雑誌『プレジデント』(2026年3月20日号)の一部を再編集したものです。

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