最終章:星を見続ける文明か、地獄に留まる文明か

ダンテは神曲において地獄という深淵を徹底的に描き切り、その構造を直視することなしに、星々が輝く至高天へは到達できないことを示した。地獄は誤りの象徴であると同時に、人間がどのように堕ちるのかを解剖した空間であった。そこには罪のメカニズムがあり、恐怖と自己保存が絡み合う構造があり、出口のない円環が描かれている。しかしダンテの物語は地獄で終わらない。地獄を通過し、煉獄を登り、天国へ至る。重要なのは、地獄が存在するかどうかではなく、地獄に留まり続けるのか、それとも通過するのかという意志である。

ミラノ・コルティナ閉会式が提示したのは、単なる祝祭のフィナーレではなかった。それは分断と混迷の極みにある現代世界に対し、「地獄を通過する覚悟」を問いかける文明的意志の表明であった。ヴェローナ・アリーナというかつての闘技場は、対立と競争の象徴である。だがその空間に垂直軸が挿入され、光が天へ伸びるとき、闘技場は共鳴空間へと変質した。水平的対立を包含したまま、上昇の方向性を示す。そこに、現代文明が取るべき態度が凝縮されていた。

いま求められる「構造転換」とは

①構造的選択としての「地獄」と「煉獄」

現代世界は地獄的状況の側面を有している。地政学的分断は深まり、経済はブロック化し、AIは人間性の境界を揺らす。しかしこの地獄は、ダンテの地獄のように永遠の罰として固定されているわけではない。それは構造的選択の結果である。恐怖を煽る政治を選ぶのか、ルール形成の競争へ移行するのか。ゼロサム経済に固執するのか、持続可能な価値創造へ転換するのか。効率至上の技術設計を続けるのか、人間中心の設計へ軸足を移すのか。これらはすべて選択である。

ダンテ・アリギエーリ像
写真=iStock.com/Crisfotolux
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重要なのは、地獄を消し去ることではない。地獄を固定化させないことである。対立は存在する。しかし対立が円環化し、自己増殖する構造に陥ったとき、文明は停滞する。煉獄とは、対立を上昇軸に再配置するプロセスである。痛みを伴うが、方向を持つ。政治においてはルール形成の競争へ、経済においては強靭性を競う構造へ、技術においては倫理を組み込む設計へ。この構造転換こそが、我々にとっての煉獄の登攀である。