競争を超える「叙事詩」的設計

このように見ると、閉会式は単に地獄・煉獄・天国を順番に描いたのではない。空間設計、身体配置、光、音楽、素材選択のすべてを通じて、水平から垂直へ、対立から方向共有へ、緊張から共鳴へという構造転換を観客に体験させたのである。神曲は文学作品であるが、閉会式はそれを「体験装置」として再構築した。

重要なのは、この構造が競争そのものを否定していない点である。円形闘技場という空間は消えない。競争は消滅せず、その上に新たな意味が付加される。地獄は排除されず、煉獄を経て天国へと再配置される。ここにあるのは、競争を超克するのではなく、競争を包含する統合の物語である。

したがって閉会式におけるダンテ的物語構造は、競争の終焉を語るのではなく、競争の再文脈化を行った。水平的対立の空間から、垂直的上昇の空間へ、そして最終的には共鳴の空間へという三段階の転換は、オリンピックを単なる勝敗の集積ではなく、上昇の叙事詩として再構築する試みであった。

第2章:グローバルPESTを貫く「ダンテ的」構造

閉会式におけるダンテ『神曲』の三部構造は、単なる芸術演出ではなく、現在のグローバルなPEST、すなわち政治(Politics)・経済(Economy)・社会(Society)・テクノロジー(Technology)の構造を読み解くためのフレームとして機能する。地獄・煉獄・天国という物語は、いま私たちが直面している国際秩序の揺らぎと、その先に開かれ得る再生の可能性を照射している。

ダンテ『神曲』の初版本。フランス国立図書館蔵
ダンテ『神曲』の初版本。フランス国立図書館蔵(写真=Zythème/CC-Zero/Wikimedia Commons

まず政治の次元である。現在の国際政治は、多極化と分断が同時進行する局面にある。大国間競争は激化し、ウクライナや中東をめぐる戦争は終結を見ず、インド太平洋でも緊張は持続する。民主主義はポピュリズムの波に晒され、制度的信頼は揺らいでいる。国家は安全保障を優先し、経済合理性よりも地政学的判断を前面に出すようになった。これはダンテの地獄における「自己保存と恐怖」に支配された世界に似ている。水平的対立が続き、誰もが相手を疑い、力の均衡が不安定化する構造である。

経済の次元もまた地獄的様相を帯びる。サプライチェーンは再編され、脱炭素投資とインフレ圧力が同時に進み、金融市場は不安定化している。債務の累積、資源価格の変動、通貨の分断。経済はかつての自由貿易の理想から、安全保障を織り込んだブロック化へと向かっている。だがこれは崩壊ではなく、再構成の前段階でもある。神曲における地獄が永遠の停滞であったのに対し、現代の経済はまだ動いている。そこには煉獄へ移行する可能性が内在している。