拾ったのを売ってるんじゃないかと言われたことも
いまや日本を代表する大観光地と化した秋葉原。東京から、地方から、海外から、日々さまざまな客が訪れるこの町に、異彩を放つ繁盛店がある。電子部品や電子工作用のキットを販売する秋月電子通商だ。場所は中央通りの西側に広がるパーツ街。用がない客には見向きもされない色気なしのこの一帯で、1970年、同店は商いをスタートした。
天井に隙間なく設置された蛍光灯がこうこうと照らす売り場は、モノ、モノ、モノのオンパレード。基板、IC、マイコン、スイッチ、電池、センサー。ぎっしりと並べられた6000点もの商品には、手書きの値札と自社製マニュアルがつけられている。
売り場に暑苦しさをもたらしているのは、モノばかりではない。平日から売り場を埋め、メモを片手に真剣に商品を選ぶ男性客も熱源だ。最近は、光や音を使ったメディア・アートの需要が増え、美大や芸術系の大学生も目立つようにはなったが、圧倒的に多いのはメーカーエンジニアたち。彼らが売り場に群がる光景を見ていると、同社の高い売り上げも納得できる。秋葉原店のほかに、八潮店、オンラインショップを展開する秋月電子の年商は昨年度で25億円。正社員数20名、パートを含めて全150名の規模でこの数字はあっぱれというしかない。
超優良企業の歴史は1960年代に始まった。
【辻本昭夫氏】最初は種屋をやろうか電子部品をやろうか迷っていたのですが、結局、信越電気商会という名前で、世田谷のほうで電子部品販売業を始めました。父親の勤め先の関係で日本無線やアンリツなどにつてがあったので、そこから部品を仕入れてね。あの頃の日本は、ちょうどいまの中国みたいでしたよ。空き地には電子部品が山のように積んであった。うちは仕入れて売ってましたが、拾ったのを売っているんじゃないのと言われることもありました(笑)。原価率は良かったですね。10万円で仕入れた品が500万円で売れたんですから。あんまり売れるので、これ以上売れるともったいないからと店を閉めて、限定的にやっていた。在庫とか仕入れとか関係なく、仕入れると右から左に売れていった。まさにいけいけドントン。今日よりも明日が良い拡大再生産の時代です。
楽しそうに当時を振り返る辻本氏。時代に恵まれていたことをあっさりと肯定するが、話を聞くうちに、秋月電子の隆盛が単なる時代の産物ではないことが浮き彫りになる。辻本氏は稀有のアイデアマンなのだ。