本当の「電子書籍のベストセラー」
「けたたましいアラームとバイブレーションが熱帯夜の浅い眠りを破った」
2012年7月に刊行された電子書籍『Gene Mapper(ジーン・マッパー)』の冒頭の一節だ。遺伝子操作と拡張現実が社会に浸透した2037年。ベトナムで発生した稲の突然変異の謎を追って、遺伝子デザイナー・林田がベトナム・ホーチミンに飛ぶ──。SF的ガジェットや社会設定が次々に登場するリアルな近未来世界、たたみ掛けるようなシーン展開、全編を貫くスピード感は、一度読みだすともうやめられない。怒涛のエンディングまであっという間だ。
藤井太洋氏が自らの処女作を"自費出版"した『Gene Mapper』は、藤井氏のウエブサイト上での直販のほか、AmazonのKidleStoreなど4種類のチャネルで販売され、すでに9500ダウンロードを突破した。2012年の「Best of Kindle本」の文芸・小説部門では第1位。名だたる商業出版物を押しのけての栄冠だ。人気を受けて、2013年4月には早川書房から大幅に加筆した文庫本『Gene Mapper-full build-』も出版された(以降、最初の自己出版版『Gene Mapper』は『Gene Mapper -core-』と呼称されている)。藤井氏の登場は、「本当に本当に本当に電子書籍の時代が訪れたのかもしれない」と予感させる。
『Gene Mapper』の発行にあたって、藤井氏は執筆から編集、電子書籍の制作作業、販促用のWebサイト作成に至るまで、すべて一人で行った。著者は原稿だけを書き、編集・印刷・販売は業者に発注する従来型の「自費出版」とは異なり、すべて一人で行うこのやり方は「セルフ・パブリッシング(自己出版)」と呼ばれている。だが、その多くは、つくったあとはKidle Storeなどのオンライン書店に任せ、読者との接点である販売面にはタッチしていない。藤井氏のように自分で売り場まで作る人は稀だ。
一から十まですべての工程に関与し、完成度を上げ結果を出す。八面六臂の活躍を可能にしたのは、藤井氏のこれまでのキャリアだ。
【藤井氏】初めて勤めた会社は製版会社だったので、印刷の工程などは全部把握しています。その後は、グラフィックデザイナーとして仕事をしていましたし、次に勤めたソフトウェア開発会社は出版社を持っていたため、出版社の経営の状態や書店と流通との関係、在庫の読み方とか、おおよそのことは理解できているんですね。本を出すのも初めてではなく、過去に「Shade」という3DCGソフトウェアの解説書などを出したことがあります。電子書籍の制作自体もPDFだったら何度もやりました。要するに、出版事業に関していえば、小説の原稿を書くこと以外はすべてやった経験があるんですよ。