阪神タイガースが2年ぶり7度目のセ・リーグ優勝を決めた。4万人超の観客が詰めかけた阪神甲子園球場は、“野球の聖地”として全国に知られている。だが、100年前のその土地は「何の役にも立たない荒地」だった。なぜ、そんな場所が“甲子園”と呼ばれる特別な場所になったのか。フリーライターの宮武和多哉さんがその原点をたどる――。

阪神100年の分岐点は荒地にあった

どんな経営者も、経営判断という名の“賭け”に踏み切る瞬間がある――「鉄道」「百貨店」「プロ野球・阪神タイガースの経営」などを手掛ける阪神電気鉄道(以下:阪神電鉄)は、100年以上前に、「廃川と三角州、一帯の荒地を巨額買収」という賭けに出た。

川の跡地だけに土地は細長く、荒涼とした一帯は、見るからに用途がない。そんな土地を「410万円」(現在の20億~30億円)で買収した阪神電鉄の経営判断は、かなり疑問視されていたという。

しかしこの“賭け”が、グループの次の100年を決めた。荒地は住宅街に変貌を遂げ、甲子園球場や阪神タイガースもここから生まれた。生じた利益によって、阪神電鉄は単なる鉄道会社から「デべロッパー」「スポーツビジネス」へとビジネスの領域を広げることができたのだ。

かつて三角州だった甲子園球場。打席に佐藤輝明選手が立っている
筆者撮影
かつて三角州だった甲子園球場。打席に佐藤輝明選手が立っている

2025年、阪神タイガースはセ・リーグ優勝を果たし、藤川球児監督は胴上げで甲子園球場のグラウンドを宙に舞った。今から100年前にさかのぼり、阪神電鉄の原点がギュッと詰まった「甲子園」の歴史を振り返りつつ、甲子園が阪神電鉄にもたらす「100年続くシナジー(相乗)効果」をたどる。

こうして三角州は甲子園に変わった

まず、一帯の開発が始まる前の1909年と、甲子園の街がおおむね形成された1947年頃との違いを、地図で比較してみよう(図表1)。

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【図表1】1909年・1947年の地図上の違い
川の跡と道路・路面電車のルートが一致する(出展=「今昔マップ」)

1909年の時点では、いまの阪神本線・武庫川橋梁の2kmほど上流から、武庫川本流と「枝川」が分流し、その下流で「申川さるかわ」が分岐。2本の分流に挟まれた三角州には小さな集落があるのみで、地図に「田畑」などの記号もほとんどない。

1905(明治38)年に開業した阪神本線は、もっとも川幅が広い枝川・申川の分岐地点あたりをまたぎ越している。のちに設置される「甲子園駅」は、この時点で影も形もない。

続いて、甲子園開発が進んだ1947年の地図を見てみよう。枝川はそのままのルートで道路(甲子園筋)に転用され、路上には路面電車(甲子園線)も見える。一帯は規則正しく道路が張り巡らされ、いまの「甲子園六番町」「甲子園浦風町」「浜甲子園」あたりは、かなり宅地化が進んでいるようだ。

そして、枝川・申川の分流で広くなっている河道や三角州は、阪神本線・甲子園駅や駅前広場、甲子園球場へと転用されている。地図上で見る限り、街としての甲子園開発は、地形を巧みに活かしたものといえそうだ。