この夢と現実の境界の曖昧さという着想は、現代でも映画の『エルム街の悪夢』や『マトリックス』、フィリップ・K・ディックの一連の小説などのモチーフとして盛んに使われている。

これらと比べ、『列子』の大きな特徴ともいえるのが、ひたすら実用的な観点――弱者が幸せを感じるための知恵として描かれていることだ。

もちろん実際には、夢と現実との間で、残念ながら幸せと不幸せとは均衡などしてくれない。

ここで『列子』が言いたいのは、幸せは現実ではないところにもあるし、それを悟ることができれば、召使いのような弱者でも幸せになれる余地は十分ある、ということなのだ。喩えるなら、現代のわれわれが、本や映画などで現実を離れ、ひとときヒーローやヒロイン気分を味わうのとまったく同じ構図になる。

会社で嫌な目にあった? じゃあハリウッド映画でも見に行ってスカッとしようよ――これと同じ形のささやかな幸せの求め方が、この時代から繰り返されていたのだ。

ちなみに、先ほど例にあげた『マトリックス』には、2人の対照的な人物が登場する。一人は、どんなに辛く惨めだとしても、現実に立脚すべきと考える主人公ネオ。もう一人は、たとえ夢や幻想でも居心地が良ければ一生包まれていたいとするサイファー。

ビジネスや自己実現系の考え方から言えば、ネオのように現実を見て生きるのが、当然の話になってくるだろう。

しかし、『列子』は言う。跳ね返せないような辛い現実の中にいるのなら、サイファーのような生き方も手ではないか、と。これもまた、弱者の苛烈な生き残りのノウハウの一つなのだ。