人間、あとから振り返ると、ああ、あれが運命の分かれ道だったのか、と気づく瞬間がある。しかも残念ながら、その場では往々にして気づきにくい。そこに、人生の難しさの一つも、あるのだろう。

列子は、人生の岐路が持つ危うさを、こんな話で表現してみせた。

楊子の隣人が、飼っていた羊を取り逃がしてしまった。自分の一族郎党はもちろん、楊子の召使いまで借りて、隣人は捜索した。

「たかが羊を1匹逃がしただけなのに、どうしてこんな大勢で探すんだい」

と楊子が尋ねると、隣人はこう答えた。

「細かい分かれ道が多いんです」

やがて一同がもどり、「羊は見つかったのかい」と楊子が尋ねると、

「見失ってしまいました」

と隣人は答える。

「どうしてだい」

「細かい分かれ道のなかに、さらに細かい分かれ道があり、どこへ行ったのかわからなくなりました。だからもどってきたのです」

楊子は憮然とした表情で居住いを正し、ふさぎ込むこと数時間、一日中笑顔を見せなかった。

門人たちは、不思議がって尋ねた。

「羊は卑しい家畜にすぎず、先生のものでもありません。黙り込んで笑顔もお見せにならないのは、なぜなのでしょう」

楊子は答えなかった――

ここに出てくる楊子(本名は楊朱、子は先生の意味)は、戦国時代の大思想家の一人だった。

この問答は、心都子(しんとし)という弟子が、楊子の真意を探る流れとなり、こんな師匠の言葉を導き出している。