今回ご紹介するのは、「杞憂(きゆう)」という言葉の出典となった話だ。

中国の古代、杞(き)という国に、天地が崩れ落ちて、身の置き場がなくなってしまうのではないかと不安にかられた男がいた。彼は心配のあまり、ろくろく眠れず、食事もとれなくなってしまう。

杞の男の心配事(憂:ゆう)なので、「杞憂」という熟語ができたわけだ。

さて、この男の抱いた不安に対して、3人の人物が、違った立場から「心配するには及ばないよ」と説いていく。

まず最初に登場するのが、いわば「現実の凄さを見てごらん、大丈夫だよ」派。彼は、こう説得する。

「天は気の積み上がったもので、どこにでもあるものだ。君だって体を伸ばしたり縮めたり、呼吸したりしているが、一日中、気のなかで動いているじゃないか。なぜそれが崩れるなんて思うんだい」

「地面も、土の塊にすぎないさ。四方八方を埋め尽していて、地面じゃないところなんてないよ。君だって、飛んだり跳ねたりして、一日中その上で歩き回っているじゃないか。どうしてそれが崩れるなんて思うのさ」

この説得の仕方は、現代で例えるなら、

「うちみたいに大きい会社がつぶれるわけないだろう」

「この強力な金融資本主義が、本当にダメになっちゃうと思うの」

といった言い方にそっくりだ。

実際、天地や企業、国家などの巨大さを見せつけられれば、ついつい納得してしまう面は確かにあるだろう。しかし、それでも現実に倒産や制度破綻があるように、これは絶対の話ではない。

そこで登場するのが、2人目の「悩むべき時に悩めばいいんだよ」派。彼は、こんな持論を展開する。

「天地が崩れて来ないかと心配するのも先走りし過ぎだし、崩れないと言い切ってしまうのも正しくない。天地も、崩れざるを得なくなれば、崩れてしまうだろう。もしその場面に遭遇してしまったら、その時心配すればよい」

この指摘など、最も穏当なアドバイスになるかもしれない。