「黄河のほとりに住む者がいた。水に慣れていて泳ぎが達者なので、舟を漕いで渡し守をしたところ、百人は養えるような莫大な利益が手に入った。
そこで、遠くから食糧を担いで弟子入りする者が群れを成したが、半分近くが修行の途中で溺死してしまった。本来、泳ぐことを学ぶつもりで、溺れることなど学ぶつもりはなかったはずだが、結果はこの有様だ。
この話、溺れなかった者が正しくて、溺れた者が正しくない、と言えるのだろうか」
人生の岐路という意味では、泳ぎを習うという選択をした時点で、運命の道筋は「溺れ死ぬ/泳ぎを覚えて大儲けする」という天国と地獄に、本人たちの素知らぬところで分かれていたわけだ。
後付けでいえば、その選択は「正しい/間違った」と言えるかもしれない。しかし、先の運命などわかるはずもない状況で、正しい選択などできたのか、という問いを、列子は投げかけているのだ。
この問答に含まれている、次の一節から有名な「多岐亡羊(たきぼうよう)」という四字熟語が生まれている。
大きな道はわき道も多い。だから逃がした羊をいつのまにか失ってしまう。学問にもさまざまな道がある。だからいつのまにか生きる真理を見失ってしまう(大道は多岐なるを以って羊を亡い、学者は多方なるを以って生を喪う)。
では、現代のように変化が激しく、先の見通せない岐路ばかりの状況で、人はどう振る舞っていけばよいのだろう。
列子はこんな答えを示して見せる。
「生まれてきたら、なるようにまかせて、やりたいことをやったら、後は死ぬのを待つばかり。死にそうになったら、やはりなるようにまかせて、見極めをつけたら、ころっと逝くことだよ」
確かに、自分の選択がどんな結果になろうと、それに満足してしまえば、何の問題もなくなってしまう。
なりゆきまかせと自己満足、それは状況に抗う力を持たない弱者にとっては、一つの戦略に他ならない。