※本稿は、ブリジッド・ディレイニー著、鶴見 紀子訳『心穏やかに生きる哲学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)の一部を抜粋・再編集したものです。
今を大切にするために「死を想像する」
ストア派は、自分にとって大切な人を生存中に偲ぶべきだと信じていました。来たる日に備えて、相手がまだ生きているうちに、その死をたびたび思い描くようにと彼らは助言します。セネカいわく、「友人と過ごす時間を思い切り味わいつくそう」。それは我が子と過ごす時間でも同じであり、「なぜならこの特別な権利はいつまで自分のものであるか分からないからだ」。
ストア哲学について学び始めた当初、私は、死など意識せずに人生を楽しく生きている人の死を想像するなんて陰気くさいと思いました。でもこれは、ローマ・ストア派の3人(セネカ、エピクテトス、マルクス・アウレリウス)の教えの奥深くに埋め込まれた実践課題だったので、やってみることにしたのです。
この課題の目的は、友人が死んだときに悲しみに暮れて後悔するよりも、今この場に一緒にいる友人を大切にすることにあります。 セネカは言います。「失ってしまった相手を思い出すことが、私たちにとって確実に楽しい記憶となるようにしよう」。それが楽しい記憶となるのは、相手が生きているうちに心行くまで親交を深めたからであり、そうすれば相手が亡くなっても、苦しんだり不意打ちに感じたりすることはないのです。
「最後の日」と考えると接し方が変わる
深い悲しみに備えるためにストア派が用いた方法は、「否定的な視覚化」と呼ばれるものでした(元のラテン語futurorum malorum proemeditationを直訳すれば「暗い未来を前もって検証する」)。今日誰かと一緒に過ごしているのが、相手にとって(あるいはもしかしたら自分にとって)、この世での最後の一日なのだと考えるのです。共に過ごせる時間に限りがあることを認識すると、信じられないほど貴重なものになります。
私は今でも、学生時代の友達が亡くなる前、最後に会ったときのことをはっきりと覚えています。海辺の町のカフェで働いている彼女に、ふらりと会いに行ったのです。私はボックス席に座っていて、彼女は仕事をしながら、客足が途切れたときにおしゃべりしに来てくれました。向かいにあるパン屋でソーセージ入りロールを買ってあったので、カフェで購入していないものを食べてもいいかしらと彼女に聞きました。「もちろんよ」と彼女は笑って言いました。「こっそり食べればいいわ」。私はコーヒーを注文して座り、いそいそと目立たないようにして、持ち込んだソーセージ入りロールを頬張り、一方で彼女は私との会話が途切れたのでお客さんのところに戻りました。ですが、会って話をしていたそのとき、私は友人がいつになく不安がっていることに気づいたのです。私は慰めて安心させようとしました。

