幕末の外観が正確に再現された

第7位は会津若松城(福島県会津若松市)。戊辰戦争の激戦地となった若松城は、明治7年(1874)にすべての建造物が取り壊された。天守は大砲を被弾しながらも、構造上のダメージは最小限だったが、明治政府は「抵抗勢力」のシンボルだった会津若松城を残すことを許さなかったのだ。

福島県 会津若松市 鶴ヶ城の桜(写真=SQZ/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons

それだけに天守再建は会津の人たちの悲願で、昭和32年(1957)の戊辰90周年記念祭を機に再建熱が急上昇。東京工業大学の藤岡通夫教授の設計で、昭和40年(1965)に外観復元された。

天守台は文禄元年(1592)に蒲生氏郷が築いたが、そのときの天守は慶長16年(1611)の地震で損壊。その後、同じ天守台に規模を縮小して建てられ、明治まで維持された。上層ほど小ぶりな層塔型(五重塔のように、同じ型の床面を規則的に小さくしながら積み重ねる構造)の五重天守で、明治初期の鮮明な古写真が複数残っていたのが幸いした。文献資料等も参照し、鉄筋コンクリート造ながら外観がていねいに再現された。

平成23年(2011)には瓦が赤瓦に葺き替えられた。寒冷地の会津では、普通のいぶし瓦では雪解けの際に水が染みこみ、その水が凍って割れやすい。このため釉を塗った赤瓦が葺かれていた。それが再現され、幕末の姿にいっそう近づいている。

創建当初は日本一の高さだった名城

第6位は昭和35年(1960)に竣工した熊本城(熊本市中央区)で、やはり外観復元の精度が高い。大天守は関ヶ原合戦前後に加藤清正が築造し、建物だけで高さ32.5メートルと、創建当時は豊臣大坂城を抜いて日本一だった。

熊本城(写真=Suicasmo/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

明治10年(1877)、西南戦争が起きると政府軍の籠城先に選ばれた挙句、籠城前に焼失してしまったが、昭和31年(1956)、市制70周年記念事業での天守再建を公約に掲げた市長のもと、再建へと動き出した。

設計は会津若松城と同じ藤岡教授で、外観を忠実に復元するために、古文書や絵図、古写真等を詳細に研究。明治初年の撮影にしてはかなり鮮明な古写真が役立ったようだ。事前に木造天守の断面図を製作し、さらに内部まで正確に再現した10分の1の精密な軸組模型を組み上げ、細部の意匠まで徹底解析。それが鉄筋コンクリート造に落とし込まれた。

平成28年(2016)の熊本地震で大きな被害を受けたが、耐震性を上げながら真っ先に再整備された。