最初に木造で復元された
第5位は、天守の木造復元第1号の白河小峰城(福島県白河市)。呼称は「三重櫓」だが事実上の天守だった。
この城も会津若松城同様、戊辰戦争の犠牲になった。白河は新政府軍が会津に侵攻する際の要地で、奥羽列藩同盟との戦いの舞台となり、建造物のほとんどが焼失した。その際に失われた事実上の天守を復元する計画が、平成元年(1989)の白河市制40周年に浮上し、実現したのである。
失われて120年が経ち、古写真等もなかったが、建造物の寸法や材質から、平面や屋根構造の断面までが詳細に記された『白河城御櫓絵図』などを参考にできた。発掘調査では三重櫓の礎石が完全な状態で確認され、その位置等も『白河城御櫓絵図』と一致。寛永年間(1624~44)の建築が戊辰戦争まで残っていたと確認された。
それをもとに復元への道筋が定められ、積み直された石垣上に平成3年(1991)、木造の伝統工法による復元天守が完成した。
これほど忠実に外観が復元された城はない
第4位は徳川御三家の和歌山城(和歌山県和歌山市)で、昭和33年(1958)に竣工した。弘化3年(1846)に落雷で焼失し、嘉永3年(1850)に完成された天守が戦前まで残っていた。いびつな四角形をした天守曲輪の東南角に建つ三重の大天守は、残る3つの角に建つ二重の小天守、2棟の二重櫓と多門櫓で結ばれ、連立式天守を構成していた。
やはり藤岡教授が設計したこの天守は鉄筋コンクリート造だが、外観が細部までこれほど忠実に再現された例はほかにない。残されていた平面図のほか、旧天守を設計した水島家にあった立面図や断面図、藤岡氏自身が焼失前に撮影した大量の写真などを徹底的に解析したという。
和歌山城の天守台は築造当時の技術が未熟だったため、平面がかなりいびつな不等辺四角形である。それでも大天守は、二重目から上のゆがみが矯正され、結果、余計に造形が複雑化している。小天守と二棟の二重櫓が載る石垣のいびつさはそれ以上だが、先に木造建築の設計図をつくり、いびつな構造を徹底的に再現したという。