本人の意思さえあれば、命を終わらせてもいいのか

たとえば「死にいたることが確実な病」を、別の言葉で言えば「回復の可能性がなく」もしくは「死が間近」という表現にもなろうが、その判断はじっさいの臨床現場ではきわめて難しい。それゆえに議論となっているとも言えるのだ。法制化すれば、その難しい判断を条文に「当てはめ」ねばならなくなり、かえって現場や当事者は混乱に陥り困難に直面するだろう。

いや、むしろ混乱するならまだマシだ。難しい臨床判断を条文へ「当てはめ」ることを第一にと考えるあまり、これまで悩み熟慮することによって保たれていた生命への倫理的思考が、マニュアル化・ショートカット化されていくことのほうが危惧される。

そしてもっとも恐ろしいのは「自己決定」というパワーワードである。

介護を要することになった高齢者のなかには、家族に迷惑をかけまいと「早く死にたい」という人も少なくない。「自己決定権」を尊重すべきだという人は、これらの人の「死ぬ権利」をも認めるべきだと言うのだろうか。

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「家に帰れないなら死なせてほしい」と訴えた母

「死にたい」との発言も、本心ではなく、つい一時的に口から出てしまっただけのものかもしれない。家族に迷惑をかけている状況が本当にあるとして、それが改善されるなら、やっぱりまだ生きていたいと思うかもしれない。「自己決定」は、いちど決めても、その時その時で、いくらでも変わりうるもの、その認識が非常に重要なのである。

ACPにおける自己決定や、尊厳死法制化のもとでの「当人の明確な要請」が、「だって本人が言ったことなんだから、それがすべてじゃないか」と、マニュアル化された手続き上の一条件とされ、本人以外の人たちに、なんら熟慮も批判的吟味もされず粛々と運用されていく未来など、想像するだけで恐怖である。

私ごとだが、90歳になる母はこの夏に急性腎不全で入院した。もともと間質性肺炎もあり肺炎も併発していたことから、医師の私の目からみても、今回ばかりはもう長くないと覚悟した。

当の母のほうは、病院の環境に耐えかね、入院2日目に「今すぐに退院させてほしい。家に帰れないならもう死なせてほしい。退院させてくれないなら、ここで自死する」とまで、半狂乱で私に訴えたのであった。

私と主治医と母で話し合い、点滴治療は中止、即日自宅に退院した。そして帰宅後、「今後は入院はもちろんいかなる治療も私は拒否する」という意思を自発的に語る様子をビデオに姉がおさめた。自宅では、点滴も抗生剤投与もおこなわずに「自然な経過」で様子をみるにとどめた。