何年も人工栄養で延命するのは終末期医療ではない

だが家族との話し合いのなかで「食事も水分も摂れないのに見殺しにはできない、点滴すらしてもらえないのか」という家族は少なからずいる。そのような家族にたいして、苦痛の除去や延命にはならないことを十分に説明した上でもなお希望される場合に一時的に点滴をおこなうケースも、たしかにある。だがそれは、本人のためというより、家族の心を満たす意味合いのものなのである。

ただそれとて、数週間も数カ月間もおこなうものではない。最長でもひと月程度だ。食事が摂れなくなった老衰末期では、かりに点滴しても胃瘻から栄養を入れても何カ月も何年も生き永らえさせることはできない。

つまり「高齢者の終末期に何カ月も何年も人工栄養で生き永らえさせる」という医療は、現実には起こり得ないのである。もしこうした医療行為で何カ月も何年も生きている人がいるなら、その人はそもそも「終末期」ではない。

つまり玉木代表のいう「終末期医療の見直し」とは、なにをどう見直すべきだと言っているのか、まったく意味が不明なのである。どこが問題なのかいっさい具体的に述べないところを見ると、終末期医療の実態をご存じないのかもしれない。

「尊厳死の法制化」の条文を考えてみる

そもそも「終末期」の定義自体がきわめて困難であることを、私たちは自覚せねばならない。医師はもちろん、とくに医療の専門家でない政治家が「尊厳死の法制化」をもし語るのであれば、この点についてはきわめて謙虚かつ自覚的でなければならない。

ではここで「尊厳死の法制化」について考えてみよう。まず以下の条文を読んでみていただきたい。

第一条 不治の病にあり、本人自身または他人に対して重大な負担を負わせている者、もしくは死にいたることが確実な病にある者は、当人の明確な要請に基づき、かつ特別な権限を与えられた医師の同意を得た上で、医師による致死扶助を得ることができる。

いかがだろうか。「尊厳死の法制化」に賛成する人は、このような条文さえあれば、生きていくことに大きな苦痛を感じている人に「死ぬ権利」と希望を与えることができるのではないか、と思うかもしれない。

このような条文であれば、当人の自己決定権も担保されているし、特別な権限を持つ医師の同意まである。そして致死扶助をおこなった医師も殺人や自殺幇助の罪に問われることもない。危険な優生思想につながることなどあり得ない、と考えるかもしれない。

しかし本当にそう言い切れるだろうか。