だから反対意見を聞いてもブレることがない
この習慣を身につけた人は、自分に向けられる反対意見をひととおり知っていて、どの意見に対しても自分なりの主張で対抗できる。反論や障害を自分から積極的に求めたおかげで、そのテーマに関するあらゆる見解に通じている。
以上の理由から、「世間一般の人々(あるいは集団)の判断よりも自分の判断のほうが信頼できる」と考える権利があるというわけだ。
人類のなかで最も賢明な人々、すなわち最も信頼できる判断を下す人々は、いま挙げた習慣を大切にしている。そのことをふまえると、少数の賢者と多数の愚者からなる「大衆」も同じ習慣を身につけるのが望ましい。
教会のなかでもとくに不寛容とされるローマ・カトリック教会でさえ、列聖[信者がその死後に聖人の地位を与えられること]の審議の際は「悪魔の代弁者」を招き入れ、その意見に耳を傾ける。悪魔が浴びせると思われる非難の言葉がすべて並べられ、徹底的に検討されるまでは、どれほどすばらしい聖者だろうと死後の名誉は認めてもらえないようだ。
「確実」さを求めるのなら、この習慣以外に方法はない
もし、「ニュートンの自然哲学を疑ってはならない」という決まりがあったらどうなるだろう。彼の理論は、いまのように心から信頼できるものではなくなるに違いない。
誰もが正しいと確信している考えでさえ、100パーセント正しいと言いきれるような根拠があるわけではない。だから私たちは、「この考えが間違っていると証明してみなさい」と世界に向かって呼びかけるしかないのだ。
呼びかけに応じる人が現れなくても、あるいは名乗り出た人が証明に失敗しても、「よし、この考えは確実に正しい」とは言えないだろう。それでも、現在の人類なりにベストを尽くし、真理を手にするための機会を最大限に活用していることは確かだ。
もしかしたら、私たちが気づいていないだけで、新たな真理がどこかにあるのかもしれない。しかし、反対意見を大切にするよう心がければ、人類がさらなる高みに進歩したときにその存在に気づけるはずだ。それに、真理に到達するまでのあいだも、自分たちが着実に真理に近づいていることを実感できるのだ。
間違いを犯しやすい人間にとって、これ以上に「確実」と言えるものはない。同時に、「確実」という言葉を使いたいなら、こうする以外に方法はない。