信頼されるリーダーとは、どんな人のことをいうのか。19世紀の哲学者ジョン・スチュアート・ミルが遺した『自由論』にはその特徴が書かれている。現代風に解釈した『すらすら読める新訳 自由論』(サンマーク出版)より、一部を紹介する――。
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「時代」も個人と同じぐらい間違いを犯す

世間(日常的に接している人たち、たとえば同じ党派、宗教、協会、社会階級、国全体あるいは同時代に生きるひとすべてととらえる人もいるかもしれない)への無条件の信頼は、ひとたび形成されるとたちまち揺るぎないものになる。

時代、国、宗派、教会、社会階級、党派が異なれば、自分と正反対の意見をもつ人もいると頭ではわかっているのに、自分にとっての世間を信じこんでしまう。別の世間に対しては、自分たちのほうが正しいと主張しながらも、その責任はすべて自分の世間に負わせる。

だが、その人がいまの世間を信頼するようになったのは偶然にすぎない。ロンドンに生まれてイギリス国教会の信者になった人は、「もし北京に生まれていたら仏教か儒教を信じていただろう」と真剣に考えたりはしないのだ。

さらに、「時代」も個人と同じぐらい間違いを犯すものだ。歴史を振り返ると、どんな時代にも間違った意見、もっと言えば「ばかげた」意見がいくつもあったことがわかる。つまり、いま正しいとされている意見の多くが、将来的に否定されてもおかしくないということだ。

ここまでの話に対し、次のように反論する人もいるかもしれない。

政府は世間のあらゆることについて決定を下し、その責任を引き受ける。「間違った意見の拡散を禁じる」という決定も、そのうちのひとつにすぎない。そして政府は、なんらかの決定を下すときに、「自分たちがぜったいに正しい」などとは考えていない。

「間違っているかもしれないから何もしない」は臆病だ

そもそも、人が判断力を与えられたのは、それを使うためだ。「間違った判断をするかもしれないから」という理由で判断力を使うことを禁じてもいいのだろうか。ある事柄を「有害」だと判断して禁止することは、「自分はぜったいに間違いを犯さない」と主張することではない。自分が間違っている可能性もあると理解したうえで、みずからの良心にもとづき、確信をもって義務を果たしているだけだ。

「私は間違っているかもしれない。だから何もしないほうがいい」と考えるのは、自分たちの利害を無視し、義務を放棄するのと同じだ。どんなケースでも適用できる反対論は、個々の具体的なケースの前ではなんの役にも立たない。

政府と個人は、自分にとって最も正しい意見を細心の注意を払って組み立てなければならない。また、組み立てた意見が正しいと確信できないときは、けっして他者に強制してはならない。だが逆に言えば、自分の意見が正しいと確信できているとしたら(意見を表明する人は確信しているに違いないが)それにもとづいて行動しないことは美徳ではない。ただ臆病なだけだ。