「間違いを自分で正せる」ことは人間の美徳である

実際、どの時代においても、偉人とされた人々の多くが過ちを犯している。いまでは間違いだとわかっている意見を支持したり、現代人にとっては明らかに不当な行動をとったりと、具体例を挙げるときりがない。ではなぜ、人類全体として見ると、合理的な人のほうが多いのだろう?

人類がこれまで無事に存続してきたという事実をふまえると、合理的な意見、合理的な行動が多数派を占めてきたことは疑いようがない。それはひとえに、人間の精神の性質のおかげだ。人には、自分の間違いを自分で正せるという特性がある。知的かつ道徳的な存在である人間にとって、その特性こそがあらゆる美徳の源泉なのだ。

間違いを正すには「経験」と「議論」が必要になる。経験を積むだけでなく、議論を通じて「経験をどう解釈すればいいか」を知らなければ意味がない。経験した事実と、議論で得た知見によって、間違った考えと行動は少しずつ改められていくからだ。

覚えておいてほしいのは、「事実と知見の両方を明確に示さなければ人の心は動かせない」ということだ。事実とは、それだけを見て意味がわかるものではない。なんらかの解説があって初めて理解できるものだ。

人間の判断力は、「自分の間違いを正せる」という点においてのみ価値がある。つまり、人間の判断をあてにしていいのは、間違いを正すための手段がつねに手元にある場合だけということだ。

ビジネス会議で話している人々
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自分の意見や行動への批判につねに耳を傾ける

では、本当に信頼できる判断を下す人は、ふつうの人と何が違うのだろう?

そういう人は、自分の意見や行動に向けられる批判に対して心を開いている。反対意見や批判に真摯に耳を傾け、正しいと思える部分があれば可能なかぎり吸収する。間違っている部分があれば、どこが間違っているのかを考え、必要があれば他者に説明する。

また、彼らは何かを「理解」するとはどういうことかを知っている。あるテーマについてじゅうぶんに理解する方法は、それに関連するさまざまな意見に触れ、さまざまな観点から研究する以外にないとわかっている。賢者と言われる人はみな、この方法によってすぐれた知恵を獲得してきた。人間の知性の性質を考えても、ほかの方法で賢くなることはまず不可能だ。

だから、他者の意見に耳を傾け、自分の意見の間違いを正し、足りない要素を補うことを習慣にしよう。「他人の意見を聞いたら、迷いやためらいが生まれて、自分の意見を行動に移せなくなるのではないか」と思う人もいるかもしれないが、実際は逆だ。この習慣こそが、自分の意見に自信をもつための基盤を形づくる。