日本語には「上下・強弱・敬卑関係」がついて回る

【水林】日本国憲法は、間違いなくフランスの人権宣言の衣鉢を継いでいるわけですが、フランス革命の理論的な指導者のひとり、『第三身分とは何か』(岩波文庫)の著者、アベ・シエイエスがナシオン(国民)を「同輩者たちの集団」と定義したことから明らかなように、人権宣言が構想している「社会」とは、同輩者、つまり上下関係のない対等な市民による自己統治的な秩序のことです。

ところが、日本の社会関係のすべてを媒介している日本語の世界は、森有正が指摘している通り、現実の上下・強弱・敬卑関係が嵌入した(入り込んだ)二人称的世界であって、人権宣言が構想する「社会」とはまったく異質なのです。それが森の言う、日本には「社会」が存在しないという言葉の意味です。

日本語とは、相手を自分よりも上の人間、強い人間と見るか、自分よりも下の人間、弱い人間と見るか、つまり上下関係、強弱関係を抜きにして相手を対象化することができない言語なのであり、日本人は日本語を使っている以上、目の前にいる人間のことを「自分と対等な基本的人権の主体である」という見方に立つことがなかなかできないのです。森有正は、敬卑語は日本語の一部なのではなくて、その全体をおおっているのだという言い方をしていますが、炯眼けいがんだと思います。

結果として日本には、対等な市民を単位とする「社会」がまったく成り立っていない。あるのは、親分・子分関係によって貫かれた、ヤクザ的世界だけということになります。

撮影=今村拓馬
「対等な市民」による「社会」が成り立っていないという。

パワハラの根本にあるのは「日本語」ではないか

だからこそ、日本人には人権意識が希薄であり、人権を蹂躙するパワー・ハラスメントが後を絶たないのだ。しかも、内部告発をするのが極めて難しい。なぜなら、権力の偏重によって上位者に価値が集中しているからだ。上位者がいかにおそまつな人間性の持ち主であっても、上位者であるだけで無条件に「えらい」。えらい人に盾を突けば、分限をわきまえていないと指弾され、最悪の場合、自死に追い込まれてしまう。

水林さんは、「日本語に生まれること」の限界を、こう指摘する。

【水林】パワー・ハラスメントの根本に何があるのかと考えたら、それはやはり日本語ではないかと思うのです。いや、日本語が手を貸しているというべきかもしれない。だからといって、日本人は日本語によってしか考えることができないし、日本語によってしか感じることができません。ヴィトゲンシュタインという哲学者は「わたしの言語の境界はわたしの世界の境界である」と述べているそうですが、言語の外に出ることはできないのです。言語とは、いわば牢獄なんです。

ぼくとフランス語の付き合いは50年を超えました。ダニエル・ペナックの面識を得たことがきっかけとなって10年ほど前からフランス語で本を書くようになってから、日本語とフランス語の両方の言語で生きる経験が非常に深まったと感じています。日本からフランスに行けば別世界だと思うし、フランスから日本に戻ってくれば、やはり別世界だと思う。同じように空があって、同じように地面があって、同じように建物があるのに、まるで違う世界だなと……。