「社会とは何か」を教える教育の重要性

丸山眞男は、「基本的人権が自然権であり、いわゆる国家的権利であるということの意味は、あらゆる近代的制度が既製品として輸入され、最初から国家法の形で天降って来た日本では容易に国民の実感にならない」と、1960年にいち早く書いていますが、ぼくはこれが今でも依然としてまったく「実感」になっていないと思うものですから、この引用を今回の本の冒頭に掲げました。

基本的人権の国家性(=自然性)を「実感」たらしめることができるのは、教育だけです。日本は、フランスの人権宣言の衣鉢を継ぐ日本国憲法を持っているわけですが、「社会」(=市民社会)とは何かを教える教育を怠ってきたのではないか。「日本は天皇を中心とする神の国である」などと平然と言ってのける首相を輩出する、日本国憲法をあからさまに敵視する政党にはそれは容認しがたいことですし、構想不可能だからです。

日本語に生まれること、フランス語を生きること』には、「来たるべき市民社会とその言語をめぐって」というサブタイトルがついている。誰もが対等である市民社会を招来するために、具体的に動き出すことはできるだろうか。

【水林】読書会を開くのも、いいかもしれませんよ。

「本の前では人間は平等」読書会のすすめ

【水林】日本語に生まれること、フランス語を生きること』の「あとがき」にも書きましたが、ぼくは2020年の10月に『壊れた魂』という小説(フランス語の原書)によって、フランスのセーヌ・マリティム県が創設した「セーヌ・マリティム県公務員読者賞」を受賞しました。

セーヌ・マリティム県の県庁には約1500人の公務員がいますが、職員なら誰でもこの賞の審査員になれるのだそうです。日本でいえば「東京都職員読者賞」といったところですが、フランスにはこうした地方自治体が創設した文学賞があったり、人口500人に満たない小さな村で開催される文芸サロンがあったりするのです。そんな小さな村に2日間のうちに人口をはるかに超える人数の読者が集まって、本をめぐっての言葉の交換を楽しむという具合に、フランスでは本を読んで討論する文化が社会の深層にまで浸透しているという印象を持ちます。

セーヌ・マリティム県県庁を訪問して、読者賞の事務局をやっているマルティーヌさんの話を伺ったのですが、審査委員は20名ほどいて、県立図書館の専門委員が候補作を5点ほど挙げ、そのリストをもとに審査委員が討議をして受賞作を決めているとのことでした。

印象的だったのは、審査委員のひとりであるシルヴィーさんの言葉です。彼女によれば、「審査委員には仕事上の上位者も下位者もいるけれど、書物を前にした討議では上下関係は消滅する」というのです。

つまり、本の前では職員は完全に対等だということです。フランス語はそういうことを可能にする言語なのですね。討論とは、本来、同輩の者たちのあいだで成り立つ言葉の交換形式であって、「えらい人」とそうでない人からなる集団には成立しにくいに決まっています。しかし、そこを一歩一歩突き崩してゆくということでしょうか。

書物が媒介する水平的な「人民の交際」(福澤諭吉)の中で交わされる新しい日本語が、やがて日本社会を変えていく力になるかもしれない。

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