日本語の特徴を深く考察した森有正

水林さんによれば、こうした日本語の特徴について最も深く考察したのは、人生の大半をフランス語とともに過ごした森有正(哲学者・作家)だったという(『日本語に生まれること、フランス語を生きること』p.98。以下、ページ数の表記はすべて同書のもの)。

東大助教授だった森はフランスに一年の予定で留学したのだが、東大助教授のポストをなげうってまでもフランスに残ることを決意し、結局はパリで客死することになった。その森が日本語の本源的な特徴を「二人称的世界」としてつかみ出し、日本語には現実が嵌入かんにゅうしている(入り込んでいる)と指摘しているという。

日本語に生まれること、フランス語を生きること』から、森の思考の核心に迫る部分を引用してみよう。

「二十五年の長きにわたってフランスで(を)生き、二十年間フランス人に日本語を教えた経験から森が得た日本語観の核心にあるものは何か。それは日本語の本源的特徴としての二人称的性格である。〈私〉(人称としての「私」――これにはワタシ、オレ、アタシなどいろいろある――ではなく、発語する以前の存在としての私)の現れ方は〈あなた〉によって規定されており、またその〈あなた〉という〈私〉も、〈私〉という〈あなた〉によって規定されているという二人称を中心とする円環的ないし閉鎖的・秘伝的構造、これである。」(p.174)

日本語の特徴が引き起こす問題

では、日本語がこうした特徴を持っていることによって、いったい何が起こるというのだろうか。何か不都合があるだろうか?

「〈私〉が「天皇に対しては臣下である、親に対しては息子である、姉に対しては弟である、あるいは先生に対しては弟子である」とき、〈私〉はそのたびごとに別々の人称詞のもとに異なる「私」として現れるわけで、誰に対しても普遍的に同じ「私」は存在しない。
(中略)
変化しない「彼」としての「私」が集まってつくる団体が「社会」なのだと森は言うわけだが(中略)、ほんとうの「私」、福沢諭吉が問題にした「あなた」によってゴム人形のように伸び縮みする「私」ではない、「彼」としての「私」がいなければ(社会は)成立も存立もしないということになろう。遍在的天皇制のもとでは、「「あなた」と「あなた」がわあわあ集まっている」共同体はべっとりと拡がっているが、「社会」は存在しないというのが、森のここでの思索の到達点なのである。」〔p.176。( )内は筆者〕