プロデューサーにとって脚本家は「強い味方」のはずだが…

私は再度、マンガ原作とドラマを見比べてみた。そしてあることに気がついた。「実は芦原氏は、このマンガを朱里が主役のつもりで描いているのではないだろうか」ということだった。「セクシー田中さん」というタイトルも本当は「私の愛しいセクシー田中さん」というように、朱里目線の作品なのではないか。

その証拠に、脚本家が書いた8話までは田中さんのモノローグが多いが、芦原氏が脚本を書いた10話はすべて朱里のモノローグに変わっている。また、芦原氏は何度も朱里のキャラブレについて指摘し、修正を求めるなど、朱里に対しての思い入れが強いことがわかる。これは、主人公であるはずの朱里が「ないがしろにされている」と感じていたからではないだろうか。そういった作品の根底部分の話し合いを、もし会って直接できていれば、芦原氏の不信感は解消され信頼関係も築けたかもしれない。

ふたつ目は、局のプロデューサーにとっていかに脚本家とコミュニケーションを取ることが大事かということだ。きちんと意思疎通ができる脚本家とでないとタッグを組むべきではない。もちろん、すべての人、原作者側ともコミュニケーションは必要だが、特にプロデューサーにとっては脚本家とどう情報共有をするかがキモになる。

プロデューサーにとって脚本家は本来、「強い味方」のはずなのだ。しかし、今回のようにプロデューサーが原作者側から言われ聞いてきたことを脚本家に告げないことが積もり積もってくると、ある時点でコミュニケーションは断絶してしまう。

報告書を読む限り、あまりにもプロデューサーは脚本家の存在をないがしろにし過ぎたと思わざるを得ない。それは自分で自分の武器を投げ捨てたようなもので、実にもったいないことだ。

制作現場の萎縮が心配だ

映像制作は自分自身との闘いでもある。大変なことも多いが、葛藤を重ね、自分を見つめ直しながら成長してゆくこともできる。そんな苦労の末に出来上がった作品は何ものにも代えられない宝物だ。だから、映像作りは楽しい。

私もその魔力に取りつかれて多くの番組を作った。なかでもドラマは、想像の世界をどう映像化できるのかというマジックのようなところがある。

見事に実現したときは嬉しくてたまらない。そんな制作現場で頑張っているクリエイターたちには、今回の「セクシー田中さん」問題をただ悔やむのではなく、ましてや萎縮するでもなく、逆にそれをバネにして次なる作品に挑んでほしいと願っている。

それが、亡くなった芦原氏への最高の手向けではないだろうか。

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