そんな状態に、さらに脚本家とのSNS上でのお互いの感情のぶつけ合いが拍車をかけた。そして読者やファンを含む一般人による炎上が決め手となってしまったのだ。それらは偶発的な出来事の重なりのように見える。

しかし、この流れの中に解決策が隠されている。それは2つある。

ひとつ目は、制作側と原作者側の信頼関係が構築できていないうちは、映像化に踏み込んではいけないということだ。これをプロデューサーである現場責任者が徹底するべきだ。報告書では、契約書の早期締結や相談書の作成を提言しているが、そういった「かたち」ではない。

「信頼関係」という目に見えないものが実は大切なのだ。テレビ番組は人によって作られる。だからこそ精神的なつながりが要となる。そのための方法論が報告書にもあった「原作者と面と向かって話をする」ことであったりするのだ。

原作者の思いは裏切られた

日テレの報告書では、「会いたくないと言われた」と記されたように、ドラマ制作者が原作者になかなか面会できなかった旨を何度も強調している。だが、ベリーダンスを一緒に観劇するなどの機会はあったとし、「この場で話すべきではない」と思ったと言い訳しているが、そんな悠長なことを言っている場合だったのか。

本当にちゃんと話したければ、どんな状況でも話そうとするはずだ。こころのどこかで避けていたのではと言われても、仕方がない。

なぜ制作者と原作者の信頼関係は構築されなかったのだろうか。私は企画が動き出した時点に生まれた齟齬に原因があるように思う。

最初に日テレが原作者に提示した企画書には「40歳を超えてわが道を往く経理部の地味なOL・田中さんとリスクヘッジを考えて生きる23歳可愛い系OL・朱里。真反対なふたりが化学反応を起こす、ほっこりラブコメディ」と書かれていた。

その内容に芦原氏は好意的な反応を示したという(小学館報告書)。

そののち、常に彼女の頭のなかには「ドラマはこの二人の主人公・・・・・・を描いてくれるに違いない」という思いがあったはずだ。

だが、その気持ちは裏切られた。ドラマの主人公は田中さんだったからだ。ここにはテレビ局のキャスティングの都合があると私は見ている。いまでこそ朱里を演じた生見愛瑠氏は主役を張る俳優だが、当時はそれほどまでではなかった。

そんななか、田中さんの方は木南晴夏氏がつかまった。当然、田中さんを主人公にした脚本が用意され、演出が施されることになる。そういった齟齬が芦原氏の不信感を募らせる原因になったとは言えないだろうか。

コンクリートのクローズアップ
写真=iStock.com/SteveCollender
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