最初に日テレの報告書を読んだとき、「これは完全に小学館と原作者である芦原氏を糾弾するような内容になっているな」と感じた。「社内調査チーム」が発表しているものであるという前提で読むため、どうしても「自己防衛」気味の表現が目立ったからだ。

例えばそれは「総括」の「本件を通じて浮かび上がった小学館と日テレの根本的な立場や考え方の違いについても指摘しておきたい」という一文にも表れており、私はここに違和感を抱いた。

組織の上層部が「現場」を断罪している

テレビ局と出版社は違う業界だ。立場や目的が違うのも当たり前で、考え方も違うだろう。だが、だからこそコミュニケーションが重要になるのではないか。そのコミュニケーションの努力が足りなかったことがそもそもの原因ではないのか。「立場や考え方の違い」を理由にしてはいけない。

調査に臨んだ日テレの姿勢についても疑問を抱いた。冒頭の「経緯と目的」で「本件原作者の死亡原因の究明については目的としていない」と記しているが、「芦原氏がなぜ亡くなるまでに至ったのか」という原因究明を避けて再発防止は図れないのではないかと感じたからだ。

さらに苦言を呈すれば、「現場の作り手」であった私から見て、現場が「断罪」されているように感じた。担当プロデューサーが若く経験が浅いということも原因であったかのように述べられているが、「若く」「経験が浅い」ことはモノづくりの現場においては言い訳にもならない。

だとすれば、「若くて経験が浅いから、能力が及ばなかった」と非難しているようにしか聞こえない。こういった紋切り型や大上段からの表現の端々から、この報告書が「組織の上層部からの目線」で書かれているということが浮き彫りになる。

日本テレビ(写真=Suicasmo/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

原作者は「キャラブレ」を最も恐れていた

次に、視点②「調査の姿勢はどうか/『踏み込み』の度合いや方法は適切か」を考えたい。

日テレの報告書はあくまでも内部における事情説明と経過報告が主になっており、肝心のテレビ局側と原作者側の「コミュニケーション」がどうなっていたのかが見えてこない。

つまり、制作者サイドが再三、原作者側と交渉を重ねた様子は詳細に述べられているが、一番知りたい「その交渉内容がどれだけ原作者の芦原氏に伝わっていたのか」ということが不明である。

その点、小学館の報告書は細かく担当者と芦原氏のやり取りが記されていて、より具体性がある。日テレとの交渉のなかで担当者が大きな不安と不信感を抱えながら作業を進めていたことが手に取るようにわかる。

小学館の報告書のなかに、見逃してはならない重要な一文がある。1~3話のプロットやドラマ版構成案をめぐるやり取りの中で、小学館の社員が日テレのプロデューサーにあてたメールのなかの部分である。

「『セクシー田中さん』はキャラクター漫画だと思っています」

この意味を読み解くことができていれば、芦原氏がこだわる点も見抜けたはずだ。

原作者が一番恐れていたのは「キャラブレ」だった。